第2章 3

 姉が生まれて三七、二十一日目。

 最後まで繰り言を止めぬまま産婆が納屋の中で首を括った。

村 の者なら大方が産声上げる際に少なからず世話になり、それなりに慕われてもいた老婆が自害したことで、急に村人たちの不審は表面化した。

 そういえば、何故長者の家では出産の祝いに訪ねても初孫の姿を誰にも披露しないのか。

 誰ひとり、件の赤子を目にした者はいないのだ。唯一、長者の者以外でそれを目の当たりにしたのは、実際に取り上げた産婆だけ。

 一体、志乃の婆様はあの夜何を見て気が触れたのか。

 やがて、皆があの社の一件を意識し始めた。あの時は単に人足の駄賃目当てで取り壊しに加わったが、そもそも村が興る前からそこにあったような祠だ、何を祀ったものか知れたものじゃない。それを無碍に取り潰すなど、今になって思えば無体なことだ、罰当たりだ。と極力声を憚りながらも村の皆口々に囁き始めるのにそう時間はかからず、程なくして祖父の耳にも入ることになる。

 そして、祖父は決断した。

 赤子は死産であったことにする、と。

 二目と見られぬ有様の屍児を目の当たりにし、それがために産婆はあのように気が触れてしまったのだと。

 そう周知すれば、村の不穏な噂話にも筋が通るように収束を図れる。どのみち今の赤子の様子ではこのまま育っても全うには生きられまい。

 何より、以上不埒な噂を放置しては「村代官」の沽券に関わるではないか。

 もとより、潰した祠を再びどうこうしようなどとは端から考えなかった。

 では、死産であるはずの赤子をどう始末するか。

 母は泣き喚きながら祖父から庇うように我が子を抱きしめ激しく首を振った。

 父は何も言わず祖父の後ろでただ項垂れていた。

 当の赤児は何も知らずニコニコ笑っていた。

 母から赤子を取り上げようとする祖父の前に、それまで念仏三昧だった祖母が毅然と割って入った。

 孫を殺す前に、まず妾を殺しなさい、と。

 祖母の思いもよらぬ剣幕に怯む祖父の後ろで、父が咽びながら這い蹲り、祖父に懇願した。

「わかりました。お義父さまのお考えのとおり、娘はたった今から死んだものと見做します。この先決してこの子を我が子だと……この家にいるものとはみなしません。ですが、」

 御一新の折に賊として取り潰しに遭ったとはいえ、父の出自も代々藩の重臣を務めた名家。世が世ならばいくら舅とはいえ一百姓が居並ぶことさえ許されぬ身分。

「……ですが、私もこの子が生まれて仮初にも初めて人の親となった身。どうか最後に娘にひとつだけでも父親としての勤めを果たさせてください」

 そんな武家としての矜持を、父は我が子を救うため躊躇うことなく投げ捨てて、舅の足元に額づいた。

「この子を……娘を生かしてください。どんな形でもいい、どうか娘を生きさせてください! お義父さまっ!」

「嫌よっ!」

 母が泣き叫んだ。

「この子は私の子。ここに、ちゃんといるのだもの、こんなに温かいのだもの! いないものなんかじゃないわ! いないことになんかさせないわ!」

 こんな修羅場など何処吹く風と、何も知らぬ気に無邪気に笑う腕中の子が可愛くて可哀想で仕方なく、母は赤子の頬の上にはらはらと落涙した。

「ちゃんと毎日言ってあげるの、私がおまえのお母さんよ、って、毎日毎日、顔を見るたびに私がお母さんなのよって、これからもずっと私たちの家族よって、ずっと……ずぅっ、う、ぅわあああん!」

 自分の生命の灯火が今風前にあると露も知らず、赤子は母の腕に抱かれキャッキャと笑うばかり。

 目の前に立ち阻む妻の背後で赤子を抱きしめ号泣する娘と、背後で土下座し慟哭する婿に挟まれ、祖父は腕を組んだまま、じっと立ち尽くすばかりだった。


 ……結局、赤子は、この家に生存することを許された。

 それだけは、許された。



 程なくして、赤子は「刀子」と名付けられ、村の者たちに初披露目された。

 祖父と父はほとんど立ち会わず、もっぱら母が赤子を抱き祖母が付き添い応対を務めた。

 祝いに訪れた者たちの腕に順繰りに抱かれても愚図る素振りさえない、思わずほっこりと、誰もが目尻を下げ笑を釣られる愛らしい仕草。傍から見れば、これほど可愛らしい赤子はない。

 こんな面愛い赤子を蛇の子などと、あの婆は何の戯言を。

 本当に縫ちゃんによう似ていなさる。こりゃあ、将来美人さんになりさるえ。

 ……村人たちの祝福を受けても、母はもう決して笑わないひとになっていた。


 この日から赤子は、長者の家の雛さまとして村の者たちから喜びを持って迎えられることとなった。

 産婆が蛇を見た話は、別の話として村に語り継がれることになる。

 


 それから幾年か過ぎ、娘は周囲の期待以上に美しく成長した。

 決して人見知りせず、誰の前でも終始明るく笑みを絶やさぬ娘は誰からも愛された。

 皆が雛さま、雛さまと頭を撫で、抱きかかえ、機嫌を取った。

 皆の腕に抱かれあやされご満悦の小さな雛さまは、上機嫌にキャッキャと笑い声を上げ、覚えたばかりの言葉でたどたどしく大人たちにお礼を言った。

 その、顔中が線のように細められる一瞬に、不意にまるで物心ついたばかりの小娘とは思えぬ程の艶気を、時折見るものに与えることがあった。

 それを目の当たりにした男たちは、それ以降の娘を見る目が明らかに変化していった。

 娘が成長するにつれ、その周囲の者たちが纏う気配は、徐々に変わりつつあった。

 やがて娘の周囲に集うのは、いつの間にか老若問わず男たちばかりになり、女たちの姿は次第に遠巻きに遠ざかっていった。

 ……ある女が、周りに聞こえないような小声で吐き捨てるように言った。


 ――あンだけ並外れた別嬪さんだ、どうせ長生きできないさ

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