第1章 3

 それは、僕が尋常五年の初夏の夕方の出来事だった。

 遊び仲間と別れた帰り道に、ふと田んぼ脇の小川の土手に一人座っている姉の姿を見つけた。長かった今年の梅雨を惜しむように蛙の声が疎らに響き、遠くにヒグラシの声が小さく聴こえる静かな夕間暮れだった。

 他に人の姿はない。仄かに漂う竈のこうばしい香りが、家々の夕餉支度の気配を遠くから匂わせていた。

 茜色の夕陽にすべてが薄黄色に透かされた風景の中で、縹染の夏衣の姉の周囲は、もうすぐ小さな稲穂の蕾を覗かせようとしている青々とした稲葉の波の辺にそこだけ一足先に夕闇の帳が降りたようだった。

 近づいてみると、姉は淡い露草色の着物の裾をたくし上げ、小川の流れに両足を浸し、つま先で水面を弄んでいるところだった。

 傍に鼻緒の柄の鮮やかな草履が、几帳面に脱ぎ揃えてあった。

 こんなにすぐそばで姉と二人きりになるのは生まれて初めてのことだった。

 姉は、もう数え十五歳になる頃で、遠目からでも僕より頭ひとつほど背が高く、実際の齢差よりもずっと大人のように見えた。

(こんなに綺麗な人だったんだ……)

 思わず息を呑んで、立ち止まる。

 家の中では半ば隔てられていたこともあり、姉弟だからと今まで意識に挙げたこともなかったが、こうして近くで向かい合ってみると、仲間たちが姉を前にして萎縮してしまうのも無理はない。

 それほど、姉は美しく成長していた。

 両足を浸した水面を見つめる姉の横顔は、いつか垣間見た時に頬を染めていた童女らしい赤みは消え失せ、代りに成熟過程の瑞々しく真っ白な張りに満ちた肌に夕陽が青白く影を落としていた。

 長い髪を腰まで流し、眉下で綺麗に整えられた柔らかな前髪から覗く、やや白眼勝ちな双眸は長い睫に縁どられ、艷な印象を見る者に与える。

 その上から些かの躊躇いもなく浮かべられた無垢爛漫な童女の微笑みは名残として留まり、それが一層艶かしい懸隔として見る者の心を悩ませた。

 僕より先に二次性徴期を迎え、ほぼ女性の姿に整いつつある柔らかな曲線上には、薄地の着物を押し上げる胸の双丘が控えめながらもはっきりと見て取ることができ、姉弟とは言え、思わずどぎまぎしてしまう。

 微かな緊張を感じながら、姉のもとへ歩み寄った。

「お姉さま」

 声を掛けても振り向かず、姉は相変わらずにこにこ笑ったまま、足元の水面を見つめていた。

 既に日は集落を囲む深い山々の裾に半ば沈みかけ、昼間きらきらとせせらぎを反射していた日差しは陰り、一間幅の小川の流れを底知れぬ墨の色に染めていた。

 ちゃぷ、ちゃぷ、とつま先で弾く水音の上に逆光の姉の影が重なり、真っ黒な水鏡の中で姉の姿だけが白くゆらゆらと揺れていた。

「……お姉さま?」

 もう一度呼びかけてみるが、やはり姉は返事をしない。

 相変わらず川面の上に目を落とし、つま先で水面を弄んだまま、……まるで川上から姉だけが知る何ものかが訪うその時を、片時も目を離せず待ち望んでいるような。

 僕は、姉が何をそんなに無心に見つめているのか少し気になり、無言のまま笑みだけを浮かべる姉の傍らにしゃがみこんだ。

 姉はまるで気にした風でもなく、変わらず足元に目を落としたまま笑を浮かべている。

 そばに座ると、遠くで見るよりも一回りほど、姉を大きく感じた。

姉の身体からは、微かにつん、とする甘い匂いがした。

「――勝太郎」

 不意に、姉が僕の名を呼んだ。記憶の限り、初めて聞いた姉の声。

「さっき、真っ白な蛇がいたの」

 顔を上げると、いつの間にか姉は川面から目を離し、僕の顔をはっとするほど大きな目を開いて覗き込んでいた。

 蛙の声は、いつの間にか止んでいた。

「とても大きな、お前など一口で飲み込んでしまえそうな、とても大きな蛇よ。……それが、小川を登っていったの。鎮守の森の方へ」

 か細い、それでいてよく通る声で、姉は嬉しそうな笑顔を更に深めながら語りだした。

 鎮守の森、と呼ばれるような場所は、この辺りにはない。きっと、一里ほど離れた深い森の茂る小山のことだろうと思った。

「っ⁉」

 唐突に冷たく柔らかいものを右の太腿に感じ、思わず身を震わせる。

 見ると、真っ白い姉の手が、僕の脚に触れていた。

「姉……?」

 気がつくと、姉の笑顔は先ほどよりもずっと目と鼻の先まで近づいていた。

 小顔のため殊更大きく見える姉の双眸が、僕の目の中にも残像を残しそうなほどに、じぃっと注がれる。

 僕は小さく、息を飲んだ。

(……ひょっとして、僕は姉さまの大事な用事の邪魔をしてしまったのかしら?)

 それで、蛇のお化けの話など始めて、僕を懲らしめようとしているのだろうか。

 叱られている、と思った途端、初めて恐怖を覚えた。

 つんとする甘い匂いが先ほどよりも強く鼻腔を擽り、僕は慌てて姉から目を逸らし、再び水面の上に視線を戻す。

 思い出したように高鳴る動悸が体を震わせ、泣きたいような気持ちをぐっと堪える。

(どうしよう……。姉さまは、僕に意地悪をしているの?)

 気安く姉に話しかけてしまったことを後悔した。

 知らぬうちに何か姉の機嫌を損ねるようなことをしてしまったに違いない。

 戸惑いと微かな胸の痛みが、見つめる先の黒い川の水をぼんやりと滲ませる。

「……ごめんなさい」

 掠れそうな声で、なんとかそれだけを口にした。

「うん? なぜ謝るの?」

 首をかしげる気配が伝わる。

 僕の危惧とは裏腹に、姉の様子からは怒りの気配は感じられず、ただ僕の右腿に載せた左の掌を時折僅かに蠢かせるばかりだった。

「――ねえ、勝太郎?」

 にじり寄るように姉は言葉を続ける。

「きっと、あの蛇は鎮守の森の姫神様ね。……それが、お前が来る前にわたしの前を泳いでいったのよ」


 ――ずっと後になってから知ったことだが、その小山はかつて鎮守の森と呼ばれるに相応しく小さな社が祀られており、ささやかながらも山道には参道らしく鳥居も一基存在していた。

 それが祖父の代に下令された神社合祀政策の折、社が廃社とされる心配よりも、合祀のどさくさで自分の所有地を二束三文で召し上げられることを危惧した僕たちの祖父は、村の男手を集めて社も鳥居も跡形残さず壊し、はじめからそこがただの小山である風で扱った。

 もとよりその社がいつからその森に存在し、何を祀ったものなのかを知る者は誰もおらず、氏子も決まった神職も存在しない端から忘れ去られていたような神社の取り潰しについて表立って祖父に反発する者など一人もなく、やがて取り壊しに関わった男たちですら、そこにかつて社が存在していたことなど口にすることもなくなった。

 姉が生まれる一年ほど前の出来事である。


 姉の話を聞くうちに、ひとつの怪談を思い出し、ぞくり、と僕は身震いした。


 社を取り壊した直後、その森に芝刈りに入った老婆が、大人の身の丈ほどもある真っ白な大蛇を見た、と騒いだことがあった。あれは社の女神様に違いない、と。

 その老婆は僕の母が祖母の腹から産まれる時も取り上げたという近隣では名の知れた産婆で、この騒ぎは当時ちょっとした騒ぎになったらしい。

 それから間もなく、その老婆は気が触れ、家の者に納屋に閉じ込められ、狂死したという話だった。


 当時の僕には社にまつわる事情など知る由もなかったが、白い大蛇は森の主、主を目にしたものは気が触れる。そんな言い伝えを小さい頃の寝物語に、添い寝の女中から耳にしたのを覚えていた。


「お前にも見せてあげたかったわ」

 姉が、徒に僕を脅かそうとしているのでないことは知れた。

 だから尚の事恐ろしくなった。

 ……今にも、暗い水面の上を、真っ白な長いものが、ゆらゆら流れてくるかもしれない。

 いや、蛇はそんな泳ぎ方をしない。

 まるで流れの上を走るように、すぅーっと泳いでくるのだ――。

 ……次第に、水面を見続けているのが恐ろしくなり、姉の方へ視線を戻しかけた途端。

 あっ! と声を上げそうになった。

 姉は僕の顔を覗き込むように身を乗り出し、僕の右足を掴んだまま、殆ど僕に凭れかかるような姿勢になっている。それが躙り寄るうちにはだけたのか、夏衣の裾が大きく割れ、真っ白な肌が露わになっていた。

 横座りを崩して投げ出された右足は、臀部の膨らみから腰骨より内側の窪みまで夕陽の逆光が影を落としてもなお仄白く浮かび上がり、窪みの奥の暗い翳りを木綿色の裾よけが、危うく覆っている。

 百姓娘の労働も知らぬ、無骨な骨筋ひとつない太腿と膨ら脛は、今日初めて日の光を浴びたような初々しい瑞々しさが薄暮の中で静かに光り、姉の息遣いに合わせ微かに上下する下腹と、夏衣と裾よけの狭間で辛うじて丸みを覗かせる臀部は、このまま一生陽の光も知らずに無垢なままかと思わせる。


 ……異様なほどに、真っ白く浮かび上がる。

 それに続く真っ白な太腿の内側を――


 真っ赤な血が一筋、這うように流れていた。


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