第1章 2

 物心のつく前から、僕には、姉と一緒に遊んだ記憶が無い。

 一緒に遊んだ記憶はおろか、ともに傍らに並んだ記憶すら、ない。

 思い出の中では、何故か姉はいつも僕から遠い処に佇んでいた。

すぐ傍にいるはずなのに、手が届かない。

 あの頃を思い出すと、そんな気がしてならない。

 しかし当時の僕は、姉の存在を心中に感じつつも、外に出れば村の見知った顔ぶれの子供らに混じり、何の疑問も感じることもなく幼少時代を過ごしていたのだった。

 まだお互いに、地主の子と小作人の子、そんな立場の違いをあまり理解できていない年頃の僕は、いつも村の子供たちを相手にし、山や田畑を駆け回って遊んでいた。

 征露の戦役から大分年を経てもなおその熱狂未だ冷めぬ田舎集落では、自分の親爺がいかに応召先で戦果を挙げたかが子供らのあいだでも物を言ったものだ。

 親爺が若かりし日の旅順戦で金鵄勲章を授与されたという餓鬼大将は、自分も乃木大将になったつもりでソレ二百三高地とばかりに我々を率いて野山畦道を駆け巡り、その傍らでは痩せぎすの少年が喇叭吹きの従卒宜しく口真似の号笛を鳴らす。ほとんど集落から外の世界を知らずにいた僕たちは、ただ遠く近く連なる山々の向こうに、ぼろぼろになるまで回し読みした少年雑誌の挿絵でしか知らぬ異国の戦場を重ねながら勇ましい夢の少年時代を駆け遊んだ。


 そうして体中を泥だらけにし、夢中になって遊んでいるとき、ふと振り返ると、いつも姉がにこにこ笑いながら僕たちを見ているのだった。

「あ、勝っちゃんの姉チャ」

 と仲間の誰かが気づくと、小高い土手の上の方から腰まで届く長い髪を夕風に靡かせ、戦争ごっこに興じる僕たちをにこにこと見下ろしているのだった。

 足元で葉を伸ばした夏草と同じ花浅葱色の夏衣の袖を夏風になびかせながら。

 あるいは、黄昏の夕空の下に影を伸ばし、二藍の着物の肩に秋茜を纏わせながら。

 思い出の中では、姉はいつも夏のはじめか秋の夕暮れの中にいて、それぞれの風景の中で同じ笑みを浮かべていた。

 そうすると、不思議なことに仲間たちは決まっていつも、まるで夢から覚めたかのようなかおをして皆その場に立ち尽くすのだった。

 遊びの最中に目に入ったものがあると、やれ敵兵だと石礫を投げつけては、野良犬などを追い掛け回すこともあれば、子供好きの大人の前では、乃木将軍相手に正対するかのように「捧げ銃」の真似事をすることもある。特に尋常の教師や仲間の親爺が機嫌の良い時に通りかかると、時々子供らに菓子をくれることもあるのが楽しみだった。

 しかし姉が僕たちの前に現れたときは、誰も何も言葉を発することもなく、いかにも子供じみた遊びへの興が覚めたように皆ばつの悪い思いに駆られ皆一様に顔を伏せたものだった。

 皆が姉の姿に一体何を感じていたのかは、当時の僕には想像もつかなかったが、例の喇叭吹きの少年(名前は忘れたが)だけは、いつも決まって、赤面したまま一人最後までその場に居残り、姉に何か声をかけようともじもじしていた。

 けれど、姉は決して仲間には加わらず、いつの間にか何処かへ消えてしまう。そして、日が暮れ、遊び疲れて家路を辿ると、その途中で遠くからこちらを見つめにこにこ笑っている姉の姿を見つける。


 ……それが唯一、姉に纏わる幼少の風景だった。


 わらい。


 それ以外の姉の表情を、僕は知らない。姉と言葉を交わした記憶も、その頃の僕にはない。


 厳格な祖父に育てられた母と、士族の三男である婿養子の父の姉に接する態度は、当時の僕にも不思議に思えるものだった。

 下働きの者ですら揃って取る食事でも、姉一人は、遠く廊下を隔てた別の部屋で取る。家の仏事、祭事にも決して参加させない。母とごく一部の奉公の下女だけが、姉の身の回りの世話をしていた。

 時折ちらと姉の部屋を垣間見る機会があると、姉のそばには大抵奉公人が控えていて、姉が廊下からこちらを覗き込んでいる僕に存在に気づくと、にっこり笑いかけてくる。

 すると、傍らに控えるというよりは見張りの番兵のように無表情の中年の女中は、さっと顔を強ばらせ別の女中を呼びつけ、僕を姉から遠ざけるのだった。

 一度、母が姉の髪を櫛っているのを目にしたこともある。

 その時も、やはり表情の乏しい女中が見張り宜しく傍らに控えていて、鏡台の前で薄手の夏服を軽く崩し、気持ちよさそうに目を細め長い髪を母に預ける姉の穏やかな表情とは裏腹に、母の顔は、傍らの女中のそれよりもさらに能面じみて見えた。

 父や祖父が姉の部屋を訪れるのを何故か見たことはなく、幼少から今日に至るまで、彼らが僕の前で姉の名を口にしたことは一度もなかった。

 そんな両親の態度は、まるで手に負えない得体の知れぬ何者かを、必死になだめて関わることを極力避け、家内での大事を恐れているように思えた。

 しかし、その頃の僕は、そんなものに頓着せず、お父様がいて、お母様がいて、お爺様がいて、そしてお姉さまがいる。そう思っているだけの幼い子供だった。

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