第9話

 入道はその場に膝から崩れ落ちた。それは正に、入道の願いが潰えた瞬間だった。

「何故じゃ……何故……」

地面に両手を付き、爪を立てた。拳で殴りつけ、額まで打ち付けた。慟哭の末、入道は静かに頭を上げた、そして、力無く座り込む。

「……これが、我らの行く末か……」

光の消えた目で、ぽつりと呟いた。

「彼、」

烏が声をかけると、今だ混乱を続ける映像の中の、一人の鎧武者が映し出された。

「あの時の赤子にござります」

「何!」

入道は一瞬怒りを見せた。目の前の映像には、舟から舟へと軽々と渡り、敵を倒していく若武者が見える。その美しい顔立ちは、確かにあの日のあの女を彷彿とさせた。

(それでは、やはりあの時……)

そうは思ったが、それを選択していたとしても、行く末は同じである事に気が付いた。ただ、やはり意味は違う。他ならぬ、自分自身の死に様は余りに違い過ぎた。

「彼一人、生かそうと殺そうと、大きな流れは変えられませぬ。此度の事、それほどの大きな意味がござりますれば」

入道は静かに前を見た。気づけばそこは元の暗闇に戻っていた。

「さもあろう。小石一つで大河の流れは変えられぬ。まして、人の力ではどうあっても及ばないものもあろう程に。しかし、」

最後の戦で重要な働きをした者が、あの時の赤子であるならば、虐げられし者だ。恐らくは、他の者共もそう変わらない身の上であるだろう。下に落とされたものが勝ち昇って来たのだ。彼でなくとも、誰かがした事には違いない。虐げられし者、を、自分は数多く作って来たのだから。

「一門にあらねば、人に非ず、か」

入道は自分の手を見つめた。力のままに下を見下し、我を通した。横暴でなかったとは言えない。不遜でなかったとは言えない。

「あれは、儂のした事だ。儂もまた虐げられ、虚仮にされ、そうでない身分を、時代を望んだ。そのはずであった。しかし、いつのまにか己の権力に溺れ、以前の身分に落ちる事を恐れるあまり他を圧した。変わらなかった。何も、変わらなかったのだ。儂を見下していた者達と。それでは、儂のような者、が、現れても致し方ない」

ふっと入道が笑った。

「今にして思えば、分る事もある。後悔もある。だが、その時その時の儂は、精一杯であった。その時思う限りの成すべきことを成し、知恵を巡らせ、精一杯生きた。こんな儂の、正しいとは言えない一生であっても、後の世の倣いにはなろう。良くも、悪くも、な」

「入道殿は精一杯生きられました。何ら恥じ入るところはござりませぬ。少なくとも天は、あなたを讃えておりましょう。人の評は分かりませぬが、人の世の頂に立たれましたことは、それ相応の力量有らばこそ」

烏はそう言って、入道の隣に立った。そして、手を差し伸べ、入道を引き上げた。入道も素直にその手に従い、立ち上がる。

「……我は、誤ってはおらぬか」

「太極と言う物に則れば、誤りなど、一つも」

「誰しも、か?」

「左様にござりまする」

烏は子供のような笑みを浮かべた。それに入道も子供のように笑う。

「詭弁じゃな」

「人の世には」

「人の世、か」

入道は天を仰いだ。いつのまにかそこには不思議に青く澄んだ空があった。

「儂の、成すべき事は終わったのじゃな」

「さればこその、黄泉にござりましょう」

「後の事は、残された者共の道、ということか」

「左様にござりまする。入道殿に責は何一つござりませぬ」

入道が判断に迷い、その判断で道の意味合いが分かれたように、残された者の誰かが判断に迷うのかもしれない。しかしそれはもう、入道の与り知らない時節の事だ。

「さもあろう」

入道はため息混じりに言った。

「幼くして終わる命を情けなしとは思えども」

「入道殿も、その手で終わらせようとなされた」

烏の最後の意地悪である。それに入道は困ったような顔をした。

「許せ。それこそ誤りじゃ」

「それが貴方様にござりまする」

「ぬかせ」

何故か、無二の親友と話をしているような気がしていた。道の終わりに、このように穏やかな時間を過ごせることが、ひどく恵まれているようにすら思えた。

「入道殿」

「何じゃ」

「最後の時、入水された女御殿や主上をお助けしようと、敵方の武将が懸命になっておられました。それも、貴方様が、彼らの血統を助けた事に起因するやもしれませぬ。結果、叶いませぬが、その心があるとないのとでは大きく違うように思われまする」

烏は静かに微笑んだ。その微笑みが、入道の心に沁みた。入道の目から、一筋、涙が零れて落ちた。

 それを合図とするかのように、入道の身体が幻のように揺らぎ始めた。どうなるのか、何が始まったのか、今の入道は問わずとも分かっていた。

「逝かれまするか」

「うむ」

烏の目の前で入道の姿は薄くなり、やがて仄かに光り始めた。そして、一つの光の珠になった。それを烏はそっと両手で包み込んだ。

「烏」

「は、」

「いずれまた、会おうぞ」

「御意」

烏が応えると、その珠はしゅっと空へ飛びあがり、高く高く昇って行った。

(ああ、あの烏めの微笑み……)

最後の意識の中、入道はその微笑みが、向かう先にもあるのだと気づいた。

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