第3話

「何故だ。何故死なねばならぬ。儂には、儂にはまだ」

入道は烏の胸倉を掴むとなりふり構わず食ってっかかった。

「やることがございまするか」

烏はその勢いに飲まれることなく静かに訊く。

「いかにも!」

入道は叫んだ。

「誰でもそう言われまする」

烏の態度は変わらない。それが余計に入道の怒りに油を注いだ。

「誰でもか!」

「誰でも」

入道は烏の言葉を耐えがたい侮辱と取った。

「儂をそこらの地下人と一緒にするな。我は、我はっ」

「同じでござりますれば」

「何!」

入道は噛みつかんばかりの勢いだった。刀があれば切り捨てているところだと、心の中で思った。だが、口には出せなかった。現実、その手に刀は無いのだ。出来ない事を口にすれば、余計に相手を助長させかねなかった。

 だが、烏の態度は一貫して変わらない。ただ、静かであった。それもまた、入道の悔しさを増す要因になった。烏本人には、入道を見下したりはしていないのだろう。侮辱する気などないのだろう。入道も心のどこかでは分かっていても、一度湧き上がった怒りを収める事は難しかった。喩えそれが、やり場のない怒りを、ただ、体の良い相手にぶちまけているに過ぎなかったとしても。

 烏は変わらぬ温度で、再び口を開いた。

「一度人の世を離れれば、誰でも同じ。仮にも入道と呼ばれし者であれば、仏の教えはご存知でしょう」

入道はぐっと言葉を詰まらせた。そして、烏の襟を乱暴に離し、目を合わせずに背中を向けた。その、まだ湯気の出そうな背中に、烏は静かに、水を注ぐ。如何な焼石と言えども、水を注ぎ続ければ、いつかは冷えると信じているように。飽かず、弛まず。

「仏の教えにおいても、命の貴賤はありますまい。神の御前に置いてもそれは同じ。この国においても、異国に置いても変わらぬもの。そも、それがこの世の理」

「……だから何じゃ。世に置いて既に仏の慈悲、神の加護すら権力で買えるものであろう。なればこそ、権力を持つ者は寺も立て、社に寄進する」

それは、入道もした事である。全てにおいて神仏を信じているわけでは無いが、全く信じていないのであれば、そのような行為にも及ばない。

「人の世に置いて、その理もまた真理でありましょうが、それが果たして神仏の理に通ずるかと問われれば、首を縦には振れませぬ」

薄々は感づいていた。確かに神仏の前で、全ての命は等しくあるだろう。そうであるからこそ、神仏なのだ。人のように、選り好みをせず、全てに等しくある。悪人には死後罰があるとは聞くが、それすらも神仏の慈愛であろう。罪を注ぎ、新しき生を得るようにするのは、親が子を叱るに似ている。全ては子の成長のため。続く世の、幸福のためなのだ。であればこそ、寺を建てようが、宮を造ろうが、そう為さなかった者との間に差異は無い。全てはその事によって、慈悲や加護があると思いたい、人の心。

「同じ……か」

入道は己の胸に手を当てた。すぅっとそこを占めていた熱が引いていくのが分かる。また、入道自身も、その熱が下がるように祈っていた。

 何かが分かりかけている。そんな気がしていた。そして、怒りはその事の邪魔になる。そう、思える余裕が入道に訪れた。

 水は、石を癒すことに成功したようだった。

「はい。皆、同じように申されます。同じ境遇に在れば、まだ、と」

烏はすっと、入道の隣に立った。入道は横に視線を向けて、静かに烏を見た。

「そうであろうな」

入道の返事に烏もまた、横を向いて入道を見た。口元に静かに微笑を浮かべている。

「はい。全てを知り得ているわけではありませぬが……恐らくは、入道が屠られた者共も、全て」

入道の目に、またも小さな怒りが湧いた。だがそれは、根底に痛みを含んでいた。それに気づかない入道では無かった。

 入道はふっと息を吐いた。怒りの裏にあるもの。自分の心の奥底にあるもの。顧みてこなかったものを、顧みる気持ちが、今になって心に浮かんだ。


今、だからこそ、だろうと思った。

今、

そう、

人の世を、離れた、今、だからこそ

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