第2話
暗闇から一人の男が彼の前に現れた。男の顔は奇妙な面に隠されて見えない。面には鳥のような、尖った嘴がついている。面は顔の上半分を覆い、男の口元だけが見えた。嘴はちょうど、男の鼻を隠すようになっている。面には何の色も無く、使った素材、そのままのようだった。しかし、それが何かと問われれば分からない。くすんだ乳白色だった。面は目と思われる部分が大きく深くえぐられていて、そこは暗く、影のようになっていた。恐らく男はその部分から外を見ているのだろう。
男の服装は山伏のような格好だった。面と衣装を合わせてみれば、烏天狗のようにも見える。そう思えば、面は黒くなくてはいけないような気もするが。
「入道」
男が言った。入道、と、呼ばれた彼の胸がどきりと音を立てた。その声、低く、厳かだったからだ。その声の奥深さに、入道、は、男が自分よりも年上なのかと思った。あるいは、自分よりも高貴な身分なのかと。それほど、その声は心を震わせるものがあった。だが、それに反するように、彼の顔の唯一見えている口元は若々しかった。声と風体から察するに、男であることは間違いないが、ほの白く肌理の細かい肌は瑞々しささえ感じさせた。年若い娘のように。男の中にもまれに、女のような魅力を兼ね備えた者はいる。しかし、男のそれはその域を超えているように見えた。最も、見えているのは口元だけなのだが。
「入道」
その見えている、仄赤くさえ見える唇が、もう一度同じ流れで音を形作った。
「聞こえておる。其方、何者ぞ」
入道ははっとして答えた。入道も負けじと腹に力を入れて低く応えた。彼もまた、人の世に置いて、上に在るものなしと言えるほどの栄華を極めた者である。自分より上の者があるなどと、思いたくはなかった。
「さて、何であると答えれば、貴方は腑に落ちるのか……仮に、烏、とでもしておきましょうか」
男、烏の言葉に、入道は、舐めるようにその全身に視線を這わせた。そして、
「似合いじゃ。その不愉快な面と出で立ち、正に烏天狗」
入道はまだ警戒を解かない。厳しい目で烏某を見つめている。
「さてもさても」
烏が頷いた。その様子がさも人を馬鹿にしているように見えて、入道はかっと頭に血を上らせた。怒声が口から零れそうになった時、大きな羽音が響いた。何事かと辺りを巡らせても、闇しかない。しかし、その音は確かに聞こえる。闇夜にカラスでも在るのかと目を凝らしても目の光一つ見えない。
入道は耳に神経を集めた。気を入れて耳を澄ませば、その音は烏の方からする。見ると、烏の背中に大きな黒い翼が生えている。
「貴方の仰る通りの烏にござりますれば」
烏が恭しく胸に腕を当てて頭を下げる。入道は驚いて声も出ない。
(これは……如何なる怪異ぞ。さては妖か。あるいは、神仏の御遣いか)
「其方……」
入道はそれだけ口にするのが精いっぱいだった。神仏に造詣が深いというほどではないが、生前に寺を建立したこともある。神も仏も無いものと思っているわけでは無かった。
さて、そのどちらとは、己で判断できないが、目の前の事象が人の域を超えた事態である事は分かる。入道の口は乾いているにも関わらず、何を呑んだかごくりと喉が鳴った。
「何者かと問われても答えられませぬ。我とて、我が何処より参り、何処へ行くのか知りませぬ故」
烏が何も言葉を継げなくなっている入道の代わりにするすると応えた。その心を読み取ったかのように。そして、更に続ける。
「まして己の正邪を問われましても……」
いつの間に持ったのか、烏は扇をぱらりと開いて口元を隠した。そうなると、最早烏の顔はどこも見えない。
烏は軽く背の羽を羽ばたかせて空へ浮いた。そして、成す術なく呆然と見ている入道の目の前に、ふわりと舞い降り、顔を寄せた。
そして、囁くように
「貴方とても、果たして」
と、言って、くっくっと喉の奥で笑った。
「おのれ、無礼な」
入道は反射的に声を荒げて刀へ手をかけるような仕草をした。いつもそうしていたように。
しかし、そこには刀は無い。入道は白装束一つであることを思い出した。それでも、烏は何を恐れてかふわりと退くと入道と距離を取って降りた。
「おお、さすがは入道殿。その身分を変えたとしても、若き日の身のこなしは忘れてはおりませぬな」
「黙れ」
そう意気込んでも、身構えても、隠れて見えない烏の目は、笑っているように感じる。何を言っても、どう動いても、ただ、苛立ちだけが増していった。
「入道殿」
そんな入道の心を知ってか知らずか無造作に烏が入道を呼ぶ。
「黙らぬか」
苛立ちと焦りが心に湧きたつ。しかし、そこは戦人の常か、相手を打ち負かそうとすればするほど、奮う心とは裏腹に、思考は研ぎ澄まされていく。相手が誰であれ、状況がどうであれ、弓矢の戦いであれ、政の戦いであれ、まず、戦いにて有利に立つには現状を正しく理解する事。勝ちを願うならば、まずはそれをよく知ったうえで策を立てる。そして動く。その一番初めの一歩を彼は思い出した。
そうだ、ここはどこであったか。
自分は病を得て床にあったのではなかったか。
まさか。
まさかここは。
入道の心は乱れた。知らず息が上がり、彼の中で冷静さと心臓が争い始める。知らなければならぬと思う気持ちと、認めたくないと思う気持ちがせめぎ合う。その中心にある、彼が探り当てた、その現状とは、果たして。
「入道殿は既に、現世を離れておりまする」
烏が、入道が一番耳にしたくない言葉を吐いた。
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