8 印象はくるりと覆り
僕が病院の玄関でうずくまって息を整えている内に、息一つ切らせていないウルフは手際よく看護師さんを捕まえて、あっと言う間にアンドリューズの病室を聞き出してしまった。
「運動不足では?」
「うる、さい……ボクシング部と、一緒に、するな……」
「あれ、私、ボクシング部だって言いましたっけ」
「噂で……聞いた……」
「君の周りにはおしゃべりな小鳥がたくさんいるようですね」
行きますよ、とコートが翻る。慌ててついていく。
アンドリューズの病室は四人部屋で、しかし使っているのは彼一人のようだった。事件の被害者だからだろう、とはウルフの推測。
そっと病室に踏み込んだ。誰もいない。
一番奥のベッドに近付く。
静かに横たわる男が一人――マックス・アンドリューズ。呼吸器と包帯で顔の半分以上が隠れているが、間違いない、写真の男だ。まだ意識を失ったままだった。電子音が小さく鳴っている。いろんな計器とつながって、かろうじて息をつないでいる男。
痛々しい姿をじっと見つめる。
ウルフが小さく「
「それ、よくやってるけど、何なの?」
「探査魔法です」彼はアンドリューズの方を凝視したまま答えた。「目に映らない魔法の痕跡を見るためのものです。呪いの影とか、
フッと力を抜くみたいに目を閉じた。そのまま首を傾げている。
「どうだった?」
「……少なくとも、転落の原因が妖精でないことは明らかですね。ただ……」
「ただ」
「彼が来たのは二日前のことでしたよね」
「うん」
「あの時よりもかなり鱗粉が薄くなっていて……妖精の鱗粉は日光で弱くなるのですが……それにしても……」
アルコール消毒のせいか、それともCTスキャンにそんな効果があるのだろうか、などとブツブツ言いながら、ウルフは窓の方に行った。太陽の角度を調べるみたいに窓から空を見上げている。
僕はもう一度アンドリューズを見下ろした。
「……ん?」
ふと首をひねる。何か、どこかに違和感がある。鼻の周りにはそばかす。包帯からわずかに覗く茶髪。写真と同じ。でも何かが――
「あ」
僕は大声を上げそうになった口を咄嗟に手で覆った。
「たいへんだ、ウルフ」
「どうしたんですか?」
「この、彼――
ウルフも息を吸い込んで、目を見開いた。
そう、明らかに違う。僕らのもとに来たやつは、僕よりも頭半分は小さかった。なのに今ここで寝ている彼は、明らかにウルフと同じくらいの身長がある。寝ているから分かりにくいけれど。目測の誤差を補ったとしても僕よりは確実に背が高い。
小走りに戻ってきたウルフがもう一度アンドリューズを見て、僕を見て、興奮した感じで言った。
「なるほど。つまり、私たちが会ったのは
僕らはすぐに病院を出た。
「そういうことなら筋が通ります」
ウルフは大股で歩いていく。僕は半分小走りになって彼の隣に並んだ。
「私たちのところへ来たのはアンドリューズではなかった。アンドリューズだと思われるように印象を操作した別の誰か、おそらくはジョナサン・ジュールだったんです。だからルームメイトの名前を聞かれて、咄嗟にアンドリューズの名前を言ってしまった」
「ああ、そういうことか」
「彼らのことをまったく知らない我々に対してなら、顔だけ誤魔化せばあとはどうにでもなると判断したのでしょう。写真には身長までは写りませんから」
印象は変えられる。魔法なんか使わなくても、工夫すれば。ウルフがそれを証明したばかりだ。一日限定の髪染め、防水性能バッチリの化粧品、今はカラーコンタクトなんてものもある。アンドリューズらしさを作るのはそんなに難しくないだろう。面識のない人間をちょっと騙すくらいなら、粗さは度胸でどうとでもできる。
「ジョナサン・ジュールは呪いを利用してマックス・アンドリューズを殺そうとした。そのためにアンドリューズの振りをして私を訪ね、自分は呪われていると大声で喧伝した。そうして、赤い服を着て彼を突き落とした。呪いだと判断されたらそれでおしまい。私の悪評が高まるだけです。万一誰かに目撃されて呪いが否定されても、難癖を付けられた私が犯行に及んだのだとかなんとか、噂だけを聞いた人はそう判断すると踏んだのでしょう」
「なるほど……あくどいな。ひどいよ。自分のためだけに無関係な君を巻き込むなんて」
ウルフは鼻で笑った。歩調が緩む。
「私ほど
まるで“そうなってもいい”と思っているような口ぶりだった。あるいはそうしてほしいと望んでいるかのような。
「そんなことない」
僕の言葉はフーセンガムの中の二酸化炭素より空虚だった。でもこれしか言えなかった。
彼もまた空虚に「ありがとうございます」と言った。笑顔に戻る。さっきまで彼がどんな顔をしていたか僕は見落とした。普段の顔は仮面みたいで、何を考えているかなど想像も出来ない。
「では、答え合わせに行きましょうか」
「善は急げ、だね。行こう!」
エイト・ブリッジの裏門に着いた時には、もうすっかり暗くなっていた。凍った風に頬が切り裂かれるようだった。寒いのは嫌いだ。
僕はすぐに寮へ入ろうとして、ウルフが付いてきていないことに気が付いた。
ウルフは裏門の外で立ち止まり、どこか上の方を見ていた。
「どうしたの?」
「……ガーゴイルがひとつ、壊れています」
「ガーゴイル?」
「ええ、ガーゴイル。分かりますよね?」
さすがにそれぐらいは分かる。教会とかの雨樋にくっ付いている悪魔の形のオブジェだ。
「魔除けになるんだっけ」
「そうです」
駆け込んできたウルフが頷いた。帽子をポケットに突っ込んで、ほうと息を吐く。鼻も頬も寒さで真っ赤になっていた。
「ひとつ壊れているせいで、全体のバランスが崩れています。だから妖精が入り込めたんでしょうね」
「あれって効果あるんだ」
「なければとっくに廃れてますよ」
それもそうか。ウルフの言うことはいちいち正しい。
「ジョナサン・ジュールの部屋はこっちだよ」
寮の廊下は底冷えしていた。前に来た時は昼間だったから感じなかったけれど、薄暗くて寒い。僕は心の底から、この寮に入らなくて良かったと思った。いかにも“何か”が住み付いていそうな感じだ。とてもじゃないが耐えられない。
目指す部屋は北側の三階だ。夕飯時だからか人は少なくって、僕らはまったく注目されなかった。(ウルフが赤くないのが最大の要因だと思うけれど。)
二階と三階の間の踊り場で、ウルフがふと立ち止まった。
「ここが転落の現場ですか?」
「うん、そうらしいよ」
ごく普遍的な階段だ。よく磨かれた焦げ茶色の手すり。カーペットが敷き詰められた床。廊下とは直角に接続していて、踊り場を挟んで百八十度回転しつつ一階上あるいは下に行く。踊り場の壁や床に残っている茶色いしみは、アンドリューズが負った怪我の重さを物語っていた。あまり長くとどまりたいとは思えない場所だ。
ウルフはゆっくりと瞬きをした。
「
彼の目の周りに一瞬だけ、ぱちりと金色の光が散らばった。それから彼はゆっくりと階段を登り始めた。床を見ながら一段一段、慎重に登っていく。僕は彼の視界に入らないように、少し後ろをついていった。
登り切ると彼は止まった。
「……ここにも、血のしみがありますね」
「え、どこ?」
指差した先を見る。インク一滴よりもさらに小さいけれど、確かに茶色っぽいしみがあった。
「落ちる前に怪我をしたってこと?」
ウルフは黙って肩をすくめた。
「彼の部屋は?」
「三一七号室。こっちだよ」
階段を登り切って右手側だ。この寮は一階に十部屋あって、南側に一番から十番、北側に十一番から二十番までがある。奇数番号が東側、偶数が西側。扉はすべて互い違いになっているから、全員が一斉に部屋から飛び出してもお向かいさんと正面衝突ってことにはならない。
「ええと……そうそう、ここだ。いるかな」
軽くノックする。と、すぐに返事があった。
応答からしばらくして扉の隙間から出てきた顔は、妙な既視感のある初対面の顔だった。僕より頭半分小さくて、団子っ鼻で、生え際がちょっと危うい感じ。髪は焦げ茶で、目はねずみ色で、そばかすは無かった。鼻の頭には小さな瘡蓋がくっついていて、引っ掻いた痕が残っていた。きっと痒かったのだろう。
こうして見てみるとよく分かる。彼が僕らの寮に来た男だ。
「あー、どうも。あなたが、ジョナサン・ジュール?」
緊張した眼差しが僕を見て、それからウルフの方を見た。次の瞬間彼はすべてを察したように顔をこわばらせて、扉を閉めようとした。
それを横から伸びてきたウルフの手が止めた。
「こんばんは、ミスター。少し、お話し、よろしいですか」
よろしくない、とは口が裂けても言えない圧力だった。僕までちょっと目を逸らしたくらい。
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