9 証言はひらり翻る
ジョナサン・ジュールはしぶしぶ僕らを中にいれて、クローゼットの前の椅子に座った。僕らと同じ二人部屋なのに、僕らの部屋の倍くらいは広かった。その分ベッドも家具も一回りか二回りくらい大きい。クローゼットなんかウルフの身長でも中に入れそうなほどだった。
けれど整頓は微妙。ジュールが座った方は比較的綺麗だが、もう半分はなかなかひどい。数ある男子大学生の部屋の中でも下の中ぐらいにあたる雑然さ。デスクの上なんかもう何日勉強していないんだろうって感じ。まったく読んでいなさそうな本が山積みになっている。おそらくこちら側がアンドリューズの縄張りなんだろう。
くるりと室内を見回したウルフが、不意を突くように「先日、私たちのところへ来たのはあなたですね」と言った。
「……そうだけど」
「なぜ、変装して来たんですか?」
「……」
だんまり。への字の口は何も話そうとしない。
「ミスター・アンドリューズを突き落としたのは?」
「……俺じゃない」
ジュールは力なく首を横に振った。それから僕らを馬鹿にするように薄く笑った。
「アイツが落ちた時、俺はグランダッドにいたんだ。もう警察にも話したし、裏も取れてる」
グランダッドは学生御用達の格安パブだ。正式名称はザ・グランド・オールド・マン。みんな親しみを込めて
僕は目を見張った。それってつまり、
「アリバイがあるってこと?」
「他にどう聞こえた?」
ジュールは鼻の穴を見せつけるようにして、僕を睨んだ。
「分かったら早く帰ってくれ。アイツは呪いで落ちたんだ。呪われても仕方のない奴だったんだよ。呪いじゃなければ神罰だったのさ」
思わずウルフの方を見た。だが彼はまったく動じていなかった。
「では、あなたがお話しされた呪いの数々は、あなたが受けた嫌がらせではなかった、ということですか?」
「ああ、そうだよ。あれはアンドリューズに降りかかった災難だ。全部な」
「へぇ」
気のない相槌を打って、ウルフはついとジュールのデスクに近寄った。その上に無造作に置かれていた携帯を指差す。
「この携帯、最新のモデルですね」
ジュールの顔色が変わった。ウルフはそのままデスクの上を見回す。「お財布も新品同様だ」それから傍らのゴミ箱を覗く。その中からひょいと拾い上げたのは、ぐしゃぐしゃに丸められた紙。それを広げる。
「レポートに追われていたご様子。課題をなくしたペナルティですか?」
「勝手に見るな!」
怒声を上げて立ち上がる。しかし彼はすぐに座り直した。その様子を鋭い目で見ていたウルフが、
「クローゼット」
冷ややかな声に、ジュールの肩がびくりと跳ねた。
「中に、何か?」
「な、な、なに言って――やめろ、来るな!」
悲鳴のような声を無視して、ウルフは真っ直ぐクローゼットに近付いた。ジュールがウルフの侵攻を阻もうとする。ラグビー部仕込みの鋭いタックル。彼はそれをひらりと躱した。派手な転倒。振動で本の山が崩れる。
「やめろ!」
ウルフは一切の躊躇いなくクローゼットを開けた。
両開きの扉を全開にして脇に退く。それで僕にも中が見えるようになる。そこに隠れていたのは――人。人間だ。それも女性。青ざめた顔で、コートを押し潰しながら身を縮めていた。
「どうぞ、レディ、こちら側へ。クローゼットは人間がいる場所ではありませんから」
ウルフが上品に微笑んで、手を差し出した。
話のすべてを聞き出すのにそう手間はかからなかった。クローゼットの彼女、フィービー・クームズが、自分から全部話してしまったからだ。
彼女はさっきまでジュールが座っていた簡素な椅子に腰かけて、片足を抱え込むようにした。豊満な胸が二の腕に隠される。スキニージーンズはぱつぱつではちきれそうだった。右手の指に絆創膏が巻いてあった。
「マックス・アンドリューズはあたしの恋人だったの。週に一回は必ずここで、一緒に過ごしたわ」
週に一回? 僕は首を傾げた。三回も四回も連れ込んでいる、という噂は間違っていたのだろうか。
僕の疑念を読み取ったように、彼女は鼻で笑った。
「浮気されてたの。知らなかったのはあたしだけ」
それはつまり、残りの二回や三回は別の女を連れてきていた、ということか。僕は愕然とした。フィービー・クームズは最高級のオリーブオイルみたいに艶やかで素敵な金髪を持っていて、オリオン座みたいなスタイルで、確かに気が強そうではあるけれど文句なしの上玉なのに(下品な言い方でごめんなさい)。それで満足がいかないなんて。なんて贅沢なやつなんだ。
僕なんて、と翻りそうになった思考はウルフの冷たい声に引き戻された。
「それで、ミスター・ジュールと共謀して、アンドリューズを突き落としたわけですか」
「少し違うわ」
クームズは顔面を蒼白にしながらも、気丈に首を振った。
「共謀したのは本当。ジュールは前から嫌がらせを受けてたの、あたし知ってたから。彼の浮気が分かった時に、ちょっと懲らしめるのを手伝って、ってお願いしたの」
「喜んで手を貸したさ」とジュール。「あの野郎、毎週何度も女性を連れてきて、そのたびに俺を追い出して……だいたいここは女性の立ち入りは禁止されているのに! そう注意するとすぐに不機嫌になって、散々嫌がらせをしてきて」
こっちだって我慢の限界だったんだ、と彼は吐き捨て、ベッドを殴った。ばふっ、とくぐもった音。埃が舞う。それが落ちるのと同じくらいのスピードで、同じくらい汚い内実が明かされる。
「そんな時にあんたのことを……魔法使いのことを知って……」
「利用できる、と?」
ウルフの問いにジュールは頷いた。
「アンドリューズのふりをして、あんたのところで騒ぎを起こす。あれを何度か繰り返せば、絶対に注目されると思ったんだ。そうすれば外部の目がこの寮にも向いて――」
「あなたは告発者としてリンチされることもなく、アンドリューズだけが処断され、なおかつこの寮の現状も改善される、と考えたのですね」
「……そう。まぁ、初回でいきなりミスしたんだけど」
その計画を遂行するには、ルームメイトの名前は“ジョナサン・ジュール”でなくてはならなかった。普段のくせでうっかり言ってしまったのか――それとも、呪われるのが怖かったのか。
「どうしようか迷いながら、グランダッドで時間を潰してたんだ。クームズが来るから近寄るなって言われてたから。そうしたら――」
「あたしが突き落としたの!」
言うなり顔を覆ってうずくまった彼女を、ジョナサンがじっと見つめた。熱っぽい視線。それはたぶん、同じ人間に虐げられている連帯感から出てきた親愛の情だけではなかった。それで察した。彼はリンチされるのが怖いだけで、この寮の違反を隠しているわけじゃないんだ。
クームズはすすり泣く声を合間に挟みながら言った。
「あたしが……待ち切れなかったの。我慢できなかった。別れてほしくてそう言ったら、彼、暴れ出して……抵抗してもみ合っているうちに……はずみで……」
「彼女は悪くないんだ! 彼女は何もしていない! 悪いのは全部アイツだ。そもそも寮則違反なんだし」
ジュールが立ち上がり、ウルフに詰め寄った。必死な顔。
「なぁ、頼む。あんたを利用しようとしたことは謝る。何だってする。だから黙っていてくれないか。あんたが黙ってさえくれれば、アイツは呪いで落ちたってことになるんだ! 俺のアリバイは完璧だし、この寮に女性はいないことになってる。彼女を見たやつは口をつぐんだ。この先も絶対に言わないって約束した。だから」
「だから人を呪い殺した汚名をかぶれと?」
ウルフの鋭い口調に、ジュールは気圧されたようだった。
「そんなの絶対にごめんです。あなた方のくだらない痴情のもつれに巻き込まれて、人殺しの汚名を着せられるなんて! そんなのは絶対にごめんだ!」
そう叫ぶと彼はクームズの腕を取って、半ば無理やり立たせた。
「嘘泣きはやめなさい。行きますよ」
え、と困惑した声を出して顔を上げたクームズ。彼女の目元はウルフの言葉通り、ほんのわずかにも濡れていなかった。
「どこに?」
「警察です。今話したことをすべて警察に話すんです」
「ま、待って。いや、あたし」
「人を殺しかけた罪が見逃されるとでも思っているのか?!」
血を吐くような叫びだった。ウルフはあの黒い瞳で真っ直ぐにクームズを見据えていた。横から見ていた僕ですらぞっとした。地獄はもしかしたら宇宙にあるのかもしれない。そんな風に思ったほど、彼の目は燃え滾っていた。
「少なくとも私は見逃しません。絶対に」
僕は彼の父親を殺した犯人がまだ捕まっていないことを思い出した。だからだろう。彼の声は怒り、荒ぶれて、業火のように猛っていた。当然だ。それは想像できる。彼は犯罪をけっして許せないのだろう。はずみだろうが何だろうが関係ないに違いない。
けれど、その中心にあるのは正義感だけじゃない。復讐心だけでもない。芯の部分には何か冷たいものがあるように感じられた。ひどく冷たく凍り付いた感情。彼はただ燃えているだけじゃない。
『一説では魔法使いによる犯行とも言われている』
光すら飲み込むブラックホール。
僕は唐突に理解した気分になった。
断固譲らない姿勢でクームズを引きずっていくウルフ。クームズは抵抗する。ジュールが罵倒しながらウルフに跳びかかる。簡単にいなされて転び、また本が崩れる。
「待って、ウルフ」
そっと彼の前に立った。
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