エイト・ブリッジの転落事件
1 扉は二枚
僕の好きなものは数学だ。数字は見ているだけで楽しい。初めて“素数”を知ったときの高揚感は今でもよく覚えている。その日はノートに素数を書き連ねるのに夢中になって、寝るのも忘れたぐらいだ。
数学のことをもっと知りたくて、グランリッド・カレッジの中の数学部に進んだ。
グランリッド、って言えば、百人中九十人が「すごい、優秀なのね」って言って、残りの九人が「ふぅん?(自慢かよ)」って顔をしかめて、最後の一人が「僕(あるいは僕の身内)と一緒だ。学部は違うけど」って言うだろう。そんな感じの名門大学。運良く、数学以外の勉強も嫌いではなかったんだ。
――いや、運悪く、かもしれない。
「やぁ、ロドニー!」
「ハームさん!」
彼は地元で仲が良かった先輩だ。僕はほっと安心して、思わず泣き出すところだった。
「おいおい、そんな調子で大丈夫か?」
「いや、駄目かもしれない……」
「だろうね。お前みたいな怖がりがよくこの大学に来たもんだ、って驚いてたんだよ。事前に調べなかったのか?」
「ホームページの写真はもっと明るくて綺麗だったんだよ!」
「ああ、まんまと騙されたわけだな」
ハームさんはけらけらと笑ったが、僕からしてみれば笑いごとじゃない。
「ちょっと考えれば分かるだろ。英国最古の大学なんだぜ?」
「だからって……」
僕はびくびくしながら周りを見回した。
数学部や数理学部などが集まる学寮、セント・ヒューバート・カレッジ。
ロマネスク様式だかゴシック様式だか知らないけれど、白っぽいザラザラした石壁が緩やかなアーチを描く回廊が特徴的だ。照明はなく自然光頼み。中庭は豊かな芝生に覆われているけれど、それを囲う校舎は砦みたいに厳つい様相をしている。
全体的に薄暗くて埃っぽくて――
「――ここまで“いかにも出そう”な感じだとは思わなかったんだよ!」
相変わらずだなぁ、とハームさんは笑い飛ばした。
僕の大嫌いなものはゴシックホラー。イギリス人なら誰もが幽霊を好むと思ったら大間違いだ。中でも僕はとりわけ苦手なんだけど。わざわざ幽霊を見に行こうとか言う人の気が知れない。
「そんなお前に朗報だ」
「えっ、なになに?」
「このカレッジ、
「ひぃっ、ちょ、やめてよ!」
「すでにいくつか事件があってだな……」
と、ハームさんは構内をガイドする片手間に、いろいろな怪事件を教えてくれた。血飛沫婦人の回遊、浮遊する本と少年の笑い声、突然降ってきたインク事件――などなど。まったく、まったくありがたくない。おかげで構内のことがほとんど頭に入ってこなかった。
「駄目だ……やっぱりやっていける気がしない……」
「平気だって、怖がりだな。――ああ、あと、これは俺もまだ確かめてないんだけどな」
残すは宿舎だけ、というところで、ハームさんはとっておきの情報を話す顔になって声を潜めた。
「今年の入学者の中に魔法使いがいるらしい」
「えっ? マジで?」
「噂ではな」
魔法使い、というものを、僕は教科書の上でしか知らなかった。歴史の授業で覚えさせられたからね。身近ではあるけれど、実際に会ったことのある人なんてほとんどいないんじゃないだろうか。
カボチャを馬車に変えるとか、箒に水を汲ませるとか、そういうことを実際にやってのける摩訶不思議な人々。サバトを開いて悪魔と通じ、動物を使って人を呪う、忌まわしき技術の継承者。
その存在自体は紀元前からあったという。
魔女狩りなどの様々な迫害を経て、公認されたのは十八世紀、産業革命の頃。数万人の一般人が犠牲になった
それ以来、彼らは隠れるのをやめた。現代の魔女狩りはただの殺人事件。十九世紀末には魔法庁というお役所が設立され、国家機関の一部として機能している(本当に
動画とかニュースとかに魔法が映ることだって、ごく稀にだが、あるにはある。
でも詳しいことは不透明。魔法使いは神秘主義。秘匿することが大好きなんだ。
「魔法使いが、グランリッドに?」
「そう。史上初めてのことだってさ」
「へぇ、すごいな。優秀なんだね」
「のんきだなお前。幽霊は怖いのに呪いは怖くないのかよ」
「いや、怖いけど……関わることはないだろうし」
なんて、この時の僕は本当にのんきに、そんなことを言ったのだった。
ハームさんと別れて寮に入る。先にこっちへ来るべきだった、と荷物を引きずりながら思った。
校舎とは打って変わって、寮の中は明るくて小奇麗だった。聞いたところでは、最近改装されたばかりだという。僕は僕の幸運に口笛を鳴らしたくなった。
文明の光は最強の味方だ。さっきまで味わっていた底知れない不気味さとはおさらば。寮がこれなら、どうにかやっていけるかもしれない。
僕はスキップのなりそこないのような足取りで、つるんとした清潔な廊下を進んだ。二階の一番奥が僕の部屋。鍵を差し込んでくるりと回す。寮母さんいわく同居人はまだ来ていないということだから、ノックは割愛。
新しい扉を開くのはいつだってわくわくする。もちろん、怖くないって分かってるときだけだけど。子どもみたいに思いっ切り開け放したかったのをぐっと我慢して、大人しくそうっと開いた。
「おわぁ……広い!」
真正面に大きな窓があって、品の良い白いレースのカーテンが閉められていた。そこを中心に左右対称に、二人分の家具が並んでいる。大きなデスクは黒っぽい木で出来ていて、見るからに頑丈そうだった。天井まである本棚は当然ながら空っぽ。ベッドには真っ白いシーツ。それからこれまた大きなクローゼット。このうちの半分にしたって、元々の僕の部屋よりずっと広くて上等だ。
女の子が爪とか瞼とかに付けるキラキラ。あれが部屋全体に塗りたくられているように見えた。もちろん幻覚なんだけど。
「どっちにしようかな」
少しだけ迷って、結局右側に決めた。眠る時に左側を下にする癖があって、そうしたとき壁が目の前にある方がなんだか安心するからだ。これまでずっとそうだったからだろう。
万一同居人が異議を唱えた時のために、荷物は広げないでおくことにした。スーツケースを床に置いて、上着を椅子の背にかけて、ベッドに腰掛ける。ベッドは僕が知っている中で一番スプリングが効いていた。
これから毎日このベッドで眠れるのか。なんて、反発力を楽しみながらニヤニヤする。
弾むのはベッドだけじゃない、僕の心もだ。
(ルームメイトはどんな人なんだろう。仲良くなれるといいな……)
ふいに扉がノックされた。
「あ、はい、どうぞ!」
同居人が来たらしい。僕は慌ててニヤニヤ笑いを引っ込めた。
扉が開く。
瞬間、目の前が真っ赤になった。
――と思ってしまったくらい、彼が着ていたコートは目を引く赤色だった。
真っ赤なロングコート。
「こんにちは」
「……ど、どうも、こんにちは」
彼は僕を見て、すんなりと左側に荷物を置いた。ずいぶん使い込まれていそうなのにすごく綺麗な銀のスーツケース。彼はクローゼットを開いて中に頭を突っ込み「うん、うん」と小さく頷いて、コートをハンガーにかけた。それから真っ直ぐ部屋を横切って、窓を全開に。
ぶわ、と風が吹き込んできた。レースのカーテンが翻る。彼が首の後ろで括っていた長い黒髪も。ボタンをしていなかった紺のジャケットも。
夏の終わりのにおい。あるいは秋の始まりのにおい。
彼は背伸びをしながら外に身を乗り出して、また「うん、うん」と頷くと窓を閉めた。そうしてからくるりと振り返り、窓枠に寄りかかるようにしながら僕の方を見た。
僕はここで初めて、彼が黒縁の眼鏡をかけていることや、その瞳が驚くほど真っ黒で美しいことや、俳優みたいに端整な顔立ちをしていることに気が付いたのだった。
彼は絵に描いたような微笑を浮かべた。
「はじめまして。アーチボルト・ウルフと申します。これからどうぞよろしく」
なんだかいい人そうだ。距離感はあるけれど、そりゃ初対面なんだから当然だろう。
「僕はヘンリー・ロドニー。こちらこそよろしく」
立ち上がって手を差し出し、軽く握手を交わす。ウルフは僕よりも十センチくらい背が高くて、痩せていて、樫の木で作った頑丈な杖みたいな印象を受けた。
黒い瞳がゆるく弧を描いて、僕をしっかりと見据えた。それから薄い唇がぱかりと割れて、
「先に言っておきますが、
僕は耳を疑った。
「この通り、正式な認定を受けています」
彼は顔の横に黒い革の手帳を掲げた。そこには金色の六芒星が描かれている。いくら馴染みがなくても常識として知っている。それは国家魔法使いに認定されている証。
――本物だ。
理解した瞬間、心がどきんと跳ねた。大学にはもう一枚、予期せぬ扉が待ち構えていた。
そしてそれが今まさに、彼の手によって押し開けられたようだった。
「一般社会で魔法を使うつもりはありませんが、癖になっている部分が少なからずあると思いますので、もしお嫌でしたら申し訳ありませんが部屋を変えてもらってください。申請すればまだ間に合うと思います」
「うん……え、本当に君、魔法使い? 魔法使いって……あの?」
「何と比べて“あの”と言っているのかは分かりませんが、そうです」
「あの……何万人に一人、とかしか、いない……」
「魔法使いは全人口の約0.005%です。ざっと二万五千人に一人ですね」
彼はスーツケースをベッドの上で開くと、その中から本を取り出し始めた。出した傍から手際よく本棚に並べていく。次々に――どんどん――明らかにスーツケースの容量を大幅に超えている冊数を!
「……あの、それ……」
「初歩的な魔法です。お気になさらず」
なんて澄ました顔で言われても。僕は絶句した。この大きさの本棚をいっぱいにするだけの本を収納していたスーツケースなんて、気にしないでいる方がおかしいと思う。
手が届かない最上段へ、本がふわふわ浮かんでひとりでに入っていく。それを見ていたら、僕は文明の光がすぅっと薄まったような気分になった。浮遊する本と少年の笑い声の話を思い出す。ハームさんの話は本当だったのだ。
――でも、まさか、僕のルームメイトだなんて!
ふいにパチッと目が合って、僕が彼をまじまじと見つめていたことに気が付いた。気まずさに喉の奥が詰まる。曖昧に笑った僕に、彼はまったく隙の無い微笑を返した。
「どうかしましたか?」
「え、いや……」
僕は思わず目を伏せた。彼の目は宇宙みたいだった。暗くて深くて広い。ちょっと怖いくらいに。
彼は「部屋、変えてもらうなら早い内に言った方がいいですよ」と涼しい声で言った。
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