2 運命が叩く

 結局部屋は変えてもらわなかった。

 いや真剣に変更を考えたけれど、一見普通のように見える魔法使いより、ハームさんから聞いた怪事件の方が怖かった。だから彼と同じ部屋にいて、何かが起きた時に助けてもらった方がいいんじゃないだろうかと思ったのである。


 打算的。でも仕方がない、怖いんだから。


 びくびくしながら二ヶ月を無事に過ごしたところで、ようやく大学に慣れてきた。恐れていたようなことも起きていない。ありがたいことに幽霊ゴーストすら出てこない。(噂はよく流れてくるけどね。わざわざ確認しにいくほど僕は馬鹿じゃない。)


 彼、アーチボルト・ウルフのことも少しずつ分かってきた。

 ――思っていたほど魔法使いってやつは怖い存在じゃないようだ、ってことも。


 最初に見て以来魔法らしい魔法を使うことはなくて、怪しげな薬品をいじったりとか、不気味な呪文を唱えたりとか、そういう姿はまったく見られなかった。少し拍子抜けしたくらい……いや、怖いからしてくれなくていいんだけど。


 部屋にいる時の彼はいつも静かに本を読んでいた。図書館で見かけることも多かった。

 というか僕が知らなかっただけで、彼は毎日図書館に通い詰めていたらしい。研究のため、というよりは、単に活字を求めているだけのようで、読む本のラインナップは多岐にわたっていた。

 彼がいない間に、彼の本棚を眺めてみたことがある。

 『幾何学の応用―ラブコニッチ版』『ニーベルンゲンの詩』『星にまつわる神話』『世界を回したお菓子の物語』『ガンジー その思想と実践』『シェイクスピアのソネット集』『世界の薬草史 第三集』『恋に落ちたら』『音楽理論~声楽編~』『箒・伝染病・石』『第一次世界大戦のパイロットたち』『心理学基礎』――本当に雑多で目が回りそうだった。ジャンルもテイストも見事にばらばら。しかも半分くらいは英語じゃなくて、フランス語やドイツ語、ラテン語にギリシャ語、僕には分からない言語の背表紙まであった。


 一度、興味本位で


「どんな本が好きなの?」


 と聞いてみたら、彼は本に目を落としたまま素っ気なく、


「面白ければ、どんなものでも」


 と返してきた。本当に活字中毒であるらしい。


 彼はクールで落ち着きがあって、ちょっと近寄りがたい雰囲気を纏っていた。初対面の時の硬くて丁寧な口調は二ヶ月経っても変わらなかった。つまり緊張していたのではなく、元からそういうやつだったのだ。

 けれどこちらの質問にはすらすらと答えてくれるし、くだらない話題――


「昨日見た夢が最高だったんだ。同じ夢を見たいんだけど、そういう魔法ってないの?」

「そんな都合のいいものはありません。……ちなみに、どんな夢だったんです?」

「巨乳のお姉さんに優しく膝枕してもらう夢」

「それは最高ですね」

「だよね!」


 ――にだって乗ってくれたから、根っこの部分から冷え切っているわけではないようだった。


 酒はザル。(ある夜こっそりウィスキーのビンを持ち込んできた。寮則違反なんだけどね。口止め料に一杯だけ貰った。翌朝空き瓶が床に転がっていたから、一人で飲み干したらしいのに、当の本人はしれっとした顔をしていた。)


 煙草はNG。(一度ヘビースモーカーの友人としばらく会ってから部屋に戻ったら、無言で窓を全開にされた。あの時の彼の目の冷たさよ!)


 趣味はボクシング――らしい。(本人に聞いたわけではない。噂で、ボクシングクラブに入ってるって聞いただけだ。)


 服の趣味はどちらかというと地味な感じ。黒とか紺とかが多いし、形もトラッドなものばかりだ。

 なのにコートだけは鮮やかな赤。いつも欠かさず、あのど派手な赤色のよく目立つロングコートを羽織っている。

 だから学内でもあっと言う間に話題になった。もちろん、「アイツは魔法使いらしい」という情報付きで。そのせいなのかは分からないが、彼は常に一人で過ごしていた。でもそれが寂しそうにも見えないから、わざわざ声をかけにいくのもなんとなくはばかられて、いつも遠目にすれ違うだけだった。


 とはいえ寮内での僕らの関係は実に良好で、付かず離れずの距離感が非常に心地よくハマっていた。彼が同室であったことを神に――神様でいいのだろうか、とちょっと疑問に思いながらも――感謝したくらいである。


 だが、十一月のある日曜日。

 僕らの生活は突然平穏でなくなった。




 日曜日の彼は、出掛ける用事がない限りは昼過ぎまで寝て過ごしている。本当は平日だってそうしたいのだ、といつだったか言っていた。眠るのが好きというよりは起きるのが嫌いらしい。だから用事のために無理やり起きた日の彼の機嫌は、傍から見ても分かるくらいに最悪だ。

 僕はたいていの場合、彼の眠りを妨げないよう静かに出ていく。けれど今日はどこに行く気にもなれなかった。


(雨……かなりひどいな)


 土砂降りの中に好き好んで飛び出す趣味は持ち合わせていない。


(仕方ないな、課題――は、行き詰まってるからやめておいて、と)


 僕はウルフから借りた本を手に取った。『怪盗パンクの愉快な仕事~ピンクのミンクとパンクのピンチ』――深く考えずに面白おかしく読める本を、というリクエストに見事に応えてくれた逸品の第二巻だ。

 ベッドに寝転がって、ぺらぺらとページをめくる。雨の音も読書には素晴らしいBGMだ。本当はヘミングウェイとかを読んだ方が格好がつくのかもしれないけれど。

 怪盗パンクがミンクの毛皮に足元を掬われてピンチに陥り、そこに仲間のジロベエが飛び込んでくる――という手に汗握るシーンに差し掛かった、その時だった。


 ドンドンドンドンッ!


 激しいノックの音。いやこれはノックじゃない。扉を殴っている音だ。

 僕は慌てて起き上がった。そんなに騒いだらウルフが起きてしまう!


「誰だよ、騒々しいな。運命でももう少し品よく扉を叩くぞ」

「うるさい! 魔法使いを出せ!」

「は?」


 扉の外に立っていたのは小柄な男だった。たぶん学生だとは思う。全身ずぶぬれでひどく震えていた。丸っこい鼻の頭が真っ赤に腫れあがっていて、その周りにそばかすが散っている。青い目はギンギンに血走っていた。

 男は僕を睨み上げ、口の端から泡を飛ばしながら、息巻いて叫んだ。


「呪われたんだ! 魔法使いに呪われた! 今すぐ魔法使いを出せ! ここにいるんだろ? 分かってるんだからな! 庇うなら容赦しないぞ!」

「ちょ、待って待って待って、落ち着いて――」

「うるさい!」


 なかばパニック状態なんだろうか。まったく話を聞かない男は、僕を思い切り殴り飛ばした。僕は生まれた時から平和主義を掲げて実践してきた人間だったから、防御も回避も出来るわけがなく、大人しく殴られて尻餅をついた。ああ、脳内に悪趣味な電飾を設置されたみたい。目の前がチカチカして、ぼーっと熱を持って、何も考えられなくなった。

 その隙に男は僕を踏み越えた。ズカズカと部屋に押し入ってウルフのベッドを蹴飛ばす。


「おい! お前が魔法使いだろ! 起きろよ馬鹿!」

「ん……あー……」ウルフの手が布団の中から出てきて、ひらひらと揺れた。「魔法使いならいくらでもいるだろ……他を当たって……」

「寝ぼけてんなよクソッ! 俺を、俺を呪いやがって! お前のせいで死にかけたんだ、許さないからな!」


 男はウルフの布団に手をかけた。

 ようやく殴られたショックから抜け出した僕は、咄嗟に彼を羽交い絞めにした。


「ちょ、ちょっと落ち着いて!」

「うるさい、放せ!」

「落ち着いて、話、を……っ!」

「放せぇっ!」


 すごい力だ。僕より頭半分小さいのに。僕は呆気なく振り払われて、もう一度尻餅をついた。その拍子にベッドの縁に後頭部をぶつけて床に転がる。今度は目の前がじわりと滲んだ。

 ぼやけた視界の中で、布団がもぞもぞと動いた。


「……何事ですか?」


 これだけ騒いでようやくウルフが起き上がった。(すごい胆力というか睡眠力というか。)

 すかさずその胸倉を男が掴む。


「よくも俺を呪ったな! 今すぐ呪いを解け!」

「……はぁ?」

「とぼけるな! お前の他に誰が、誰が……畜生っ!」


 男がまた拳を振り上げた。

 だがその拳は空を切った。

 ウルフがどんな動きをしたのか、僕の目では捉えきれなかった。だが“わずかにでも捉えた”という事実から確かなのは、それが魔法でも何でもなく、ただ身体能力の高さが為した技だったということだ。

 二回ぐらい瞬きをしたかもしれない。そのわずかな間に、男はウルフに組み伏せられて、床に頬っぺたをくっ付けていた。


「まずは話を――いえ、その前にシャワーを浴びて着替えてきてください。雨水の臭いが最悪ですから」


 と、ウルフは吐き捨てるように言った。


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