明日の朝には忽然と

猫蚤

明日の朝には忽然と

 僕がそれを見つけたのは、部活の校外ランニングの途中だった。

 暑かった夏も終わって、日が陰り始めたこの時間帯はもうだいぶ涼しくなっていた。他の部員たちより遅れてゆるゆると走っていた僕は、車道の端に転がっている物体に気づいて足を止める。

 道路に横たわる野良猫の死骸。

 高校への通学路にもなっているこの道は、片側一車線の曲がりくねった山道さんどうで、こういった動物の亡骸を見かけることは珍しくない。

 車に轢かれてしまったか、他の動物との争いで息絶えてしまったか。いままで何度か見かけたことがあっても、やはりあまり気分のいいものではなかった。

 僕は軽く手を合わせてから、少しペースを上げて走り出す。頭の中から先程の光景を追い出すように、無心で体を動かしていた。



 こんな片田舎の公立高校の弱小サッカー部でも、全国大会を控えたこの時期は練習にも熱が入る。

 ランニングを終えた僕たちは、すっかり日が暮れるまでグラウンドでボールを追って走りまわったあと、閉門時間ギリギリに校門を出た。

 いつも一緒に下校する部活仲間たちと他愛のない会話をしながら、先程のランニングコースだった道を歩く。僕はこの中で一番家が遠いので、途中で一人また一人と人数が減っていく。

 そうして、ついに同級生の友達と二人になったとき、彼がふと思い出したかのように話題を変えた。

「そういえばさ、もうちょい先だったっけ? 猫の死体があったの」

「うん。僕の家の近くらへんだったよ」

「可哀想だよなぁ。まあ俺らにはどうすることもできないんだけど」

 しみじみとした様子でそう言う友達を見ながら、僕も声のトーンを落とす。

「ああいうのって、だいたいちょっと時間が経つと消えてるけど、片付ける専門の人とかいるのかな?」

「役所に連絡したら処理してくれるらしいよ」

 そうなんだ。じゃあもし誰も連絡しなかったら、ずっとあのままなのかな?

 僕がそんなことを考えているうちに、その同級生の家の前に到着していた。

「じゃあ、また来週」

 そう言って玄関に入っていく彼に軽く手を振って、僕は一人で歩き出す。

 いつものことだけど、一人になってから家にたどり着くまでのこの道のりは、どこか物悲しい感じがする。このあたりは外灯も少なくて薄暗く、高校生男子とはいえ一人で歩くのは少し怖かった。

 ズボンのポケットに両手を突っ込んで足早に歩を進めていると、例の場所が近づいてきた。まだあの死骸はあるだろうか? そう思って目を凝らすと、ランニングの時に見たのと同じ場所に、何かが横たわっているのが見えた。

「ああ、まだあ――」

 独り言を言いかけた僕は、異変に気づいて口を閉じる。

 動かない猫の周りで、何かが蠢いている。もしかして、他の動物が猫の肉を食べるために集まっているのだろうか?

 そんな場面をあまり目にしたくはないなと、さらに速度を上げて横を通り過ぎようとしたとき、僕は見てしまった。

 猫の死骸に群がる奇妙なイキモノ。

 大きさはカラスくらいで体の色もそれに近い黒色だが、その容姿はいままで見たことがないものだった。

 手足があり、二足歩行で、頭部は丸く体毛のようなものは生えていない。まるでやせ細った人間の子どものようなその生物は、顔にあたる部分も人間に似ているが、その大きな瞳は黒目しかなく、口には牙のようなものが生えていた。

「っ――!」

 ぞわりと全身の毛が逆立つ。

 そのイキモノは、その尖った牙を猫の体に突き立て、その肉を食いちぎろうとしていた。その横では別の個体が地面に染み込んだ血液を啜るように、アスファルトに口を付けている。

 なんだこれは。僕は何を見ているんだ。

 あまりのことに全身の力が抜けそうになり、僕はとっさに足を踏ん張った。しかし、その拍子に地面に落ちていた小枝を踏んでしまったらしく、乾いた音が、静かな道路に響く。

 まずいと思ったときには、件のイキモノたちが一斉にこちらを向いていた。

 そして、

「――――!」

 いままで聞いたことのないような鳴き声が、その生物の口から発せられる。琴線を刺激するような、耳を覆いたくなる不快な音色だった。

 その瞬間、僕は慌てて走り出す。

 体の大きさから考えて、全力で走ればヤツらが追いついてくることはないだろう。

 しかし、そんな僕の希望を打ち破るかのように、背後からがさごそという物音が届いてきた。道路に落ちている落ち葉を踏みしめながら、複数の足音が僕を追ってくる。

 完全にパニックになりながら、僕はひたすら走った。心臓が早鐘を打っている。途中で足首のあたりに違和感を感じたものの、目視で確認する余裕はなく、ただめちゃくちゃに足を動かしてそれを振り払う。

 ようやく自宅の灯りが見えてきた。

 僕は玄関の扉に飛びかかるようにしてドアノブを回し、最低限の隙間を空けて家の中へと滑り込んだ。こわばってうまく動かない両手で鍵を閉め、そのまま玄関にしゃがみ込む。

「おい、どうした」

 物音を聞きつけて、一緒に暮らしている祖父が怪訝そうな顔をしながら部屋から出てきた。

「あっ、あっ、じいちゃん――見たことない生き物が、猫の死体を、それで、それで」

 ガチガチと歯が鳴ってうまく話せない。腰が抜けて座り込んでいる僕に、祖父はゆっくりと近づいて、優しく僕の両肩に手を乗せた。

「落ち着け、なにがあった?」

 目を瞑って、ゆっくりと呼吸を整える。何回か深呼吸をして、やっとまともに話せるようになってから僕は口を開いた。

「道路に、猫の死体があって、それを、変な生き物が、集まって……喰ってた」

 言葉を絞り出す僕を見ながら、祖父はぴくりとその白い眉を動かした。そして、低い声で諭すように、

「カラスとか、イタチとかじゃないのか?」

「ち、違うよ。暗かったけどはっきり見たんだ。そういう動物じゃなかった。人間の子どもみたいで、でもそれにしてはかなり小さくて、き、牙が生えてた」

 すがるように祖父の腕にしがみつきながら、先程見たものを思い出して再び恐怖がこみ上げてきた。

 それが顔に表れていたのか、祖父はゆっくりと僕を立たせながら、落ち着いた声で言った。

「よしわかった。もう大丈夫だ。飯は、食えるか?」

 首を横に振る。食欲などあるわけがない。

「そうか。じゃあ今日はもう寝ろ。明日、明るくなればだいぶ気分も落ち着くだろう」

「うん……」

 よたよたと玄関から上がって部屋へ向かう僕の肩を抱きながら、祖父は優しい声でこう繰り返した。

「もう大丈夫だ。心配するな。もう大丈夫」

 うちの両親は共働きで帰りが遅くなることも多く、幼い頃から僕は家にいるほとんどの時間を祖父と過ごしていた。昔気質で、礼儀なんかには厳しいものの、いつも一緒に遊んでくれた祖父のことが子どもの頃から大好きだった。高校生という多感な時期になって、両親とはうまく話せなくなっても、祖父とは自然体のままで接する事ができる。

 そんな祖父の言葉を、僕は信じることにする。

 部屋にたどり着くと、そのままベッドに倒れ込んだ。だいぶ落ち着いてきたのか、風呂に入りたいと頭の片隅で思ったものの、横になった瞬間に全身が疲労感に襲われて体を動かすことができず、いつのまにか意識が遠のいていった。



 翌日の土曜日。朝早くに目覚めた僕は、重たい体をなんとか起こし、祖父の部屋を訪れた。

 いつも早起きな祖父はすでに起きており、畳敷きの部屋の中央に置かれたちゃぶ台の前でお茶を啜っていた。

「起きたか」

「うん。昨日は、その、ありがと」

 僕の言葉に祖父は小さく頷いて、こちらに来て座るように身振りで表した。

 ちゃぶ台を中にして向かい合うようにあぐらをかいた僕に、祖父は急須から注いだお茶を差し出す。一口飲んで喉を潤してから、僕は口を開いた。

「あの、じいちゃんはなにか知ってるの? その……昨日のこと」

「俺も実際に見たことはないが、俺たちがガキのころは、そういうのを見たって話も時々聞いたことがある」

 その言葉に僕は驚いて、目を見開いた。そんな話いままで聞いたことはなかったし、一晩経ったいまは僕の見間違いかもしれないと思い始めていたからだ。

「あれは一体なんだったの?」

「それは俺にもわからん。聞いた話では、そいつらは生きた動物は襲わずに、死んだ動物の血肉を喰っていくらしい。骨まで残らずな。ただすごく臆病な連中で、人間なんかの自分より大きな相手にはほとんど害をなさないって話だが」

「でも、僕は昨日追いかけられたよ。たぶん……」

「まあ、気が立ってたんだろう。最近は動物の死骸なんかはすぐ人の手で処理されちまうからな。やっこさんらも食うに必死なのさ」

 冷静な祖父の態度に、僕は気が抜ける。

「また出くわしたらどうしよう」

「そんときはな、自分はお前よりデカくて強いんだぞってのをわからせればいい。大声を出すとか、体を大きく見せるとかな。実際、人間の力なら奴らに負けることはないだろう」

 そこで一旦お茶を啜って、祖父は僕の足元に視線を移して目を細めた。

「ま、不意打ちを食らったら、ちょっとくらい怪我するかもしれんがな」

 つられて見ると、右足首に人間の手形のような小さい痣ができていた。

 ぶるりと体を震わせた僕に、祖父は「心配するな。大丈夫だ」と昨夜の台詞を繰り返した。



 その後、祖父に言われて、僕は例の場所へ行ってみた。

 気は進まなかったけれど、「どうせ高校への行き帰りで毎日通る道だろ」という祖父の言葉に背中を押され、僕はゆっくりと歩を進める。

 到着してみると、そこは何事もなかったかのように綺麗だった。

 役所の人が片付けたのか、それとも奴らが処理したのか。

 今後、動物の死骸を見かける度に、僕は昨夜のことが頭をよぎるだろう。

 でも、大丈夫。

 翌朝にはこうしていままでと変わらない風景が広がっているのだろうから。 


 

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