視えないと困るんです
まちかり
・視えないと困るんです
ここは近所の眼科医、僕は中学校の帰りに緑内障の定期検診を受けに来ている。
「ハイ、今日は眼底に色を付けて検査を行いま――す」
「は、はい」
妙にハイトーンな看護師さんだな。
「ハイ、とりあえず今装用しているコンタクトを外して下さ――い」
「わかりました」
僕は受付の横に設置してある洗面台に向かい、コンタクトを外す準備をする。自動で泡が出るディスペンサーに手を近付け石鹸を取り、自動で流れる水で手を洗った。半袖の夏服だから、手を洗うのは楽だ。念入りに手首までごしごし洗いペーパータオルで綺麗に拭き取ると、コンタクトレンズを外した。
「ハイ、上を向いて下さ――い」
看護師さんが、虹色に光る目薬を僕の両目に手際よく挿していく。
「ハイ、20分くらいで効果が出ますから――」
おいおい、何にもしないで20分も待つのかよ! ……しょうがない、きれいな看護師さんには逆らえない。
「ハイ、効果があるかチェックします――」
……思ったより早いな。看護師さんは僕の両目に小型の懐中電灯の光を当てて、眼底に色が付いているか確認する。
「ハイ、大丈夫で――す。診察室1番へどうぞ――」
僕はぼやけた視界にもかかわらず、診察室に向かった。
ハッキリ見えないままだが、検査用に撮られた写真を見せられ特に異常が無いことを先生と一緒に確認した。
「ハイ、終わりましたよ――。もうコンタクトつけても大丈夫です――」
看護師さんの明るい声が響く。やれやれ、ようやくコンタクトを入れられるのか。物が見えないのは困る、歩く事すらままならないからな。
僕は診察室から出ると、再び受付横に設置してある洗面台に向かい両手をよく洗うと、ポケットに入れておいた予備の使い捨てコンタクトレンズを取り出し装着した。
――うん? 見え方が変だ。まるで水中眼鏡を掛けているみたいだ。受付の前で片方ずつ目を隠して確認していると、看護師さんに気付かれた。
「ハイ、しばらく近くが見えづらいですからね――、足元十分気を付けてね――」
「……そんな薬使うなんて、聞いてません」
「ハイ、今日は2,480円になりま――す」
「……見えないと困るんですけど……この薬の効果って、どのくらい続くんですか?」
「ハイ、3時間くらいで――す、お気をつけて――」
今日勉強できないじゃないか!
◇
もう午後の5時過ぎ。夏の陽は若干陰り、吹く風が肌に心地よく感じる。夕暮れ前だというのに、外灯やネオンはポツポツと点き始めていた。僕の視界の中では、街の灯りはまるで花が咲いたかのように明るい輪がかかり、いつもの登下校路がまるで異界の花畑のようだ。近くが見難いのは困るが、この世界の見え様に僕は少し心躍らされる。
郵便ポストを通り過ぎてすぐ、異様な風景に気付き僕は思わず振り向いた。
……ポストの上に巨大な
僕は驚いてその蟲を凝視した。蟲は僕が見ていることに気が付かないのか、微動だにしない。
まじまじとその蟲を観察する。その蟲は鮮やかに光る不思議な玉虫色の鎧のような殻を被り、全身がまるでビニールで出来たように反対側が透けて見える。先端に突き出した頭部は蟲と云うより竜のようだ。
こんなものがポストの上に居るというのに、他の人は気が付かないのだろうか? あたりを見回すが周囲の人は誰一人、この蟲の存在に気が付いていないようだ。みな、一顧だにせず蟲の横を通り過ぎていく。道の真ん中に立ち尽くす僕の方が、『邪魔だ』と言わんばかりに白い眼を向けられている。
だが僕はそんな道行く人たちの視線など気にしない。むしろこの巨大な蟲から目を離せなかった。
『こいつはなんなんだ? なんでこんなところに居るんだ? 何をしようとしているんだ?』
僕の頭の中をいろいろな疑問がよぎる間に、変化がおこった。
「ギギ……」
蟲は微かに啼くと、その半透明な殻を展開し羽を広げた。蟲が音もなくふわりと飛び上がった瞬間、僕の背中に『ゾクリ』と寒気が走る。
『ヤバイ!』
なにか漠然とした恐怖心に煽られ、僕は蟲のあとを追って走り出した。それほど高い空を飛んでいないので、追うのは難しくない。
蟲はあるマンションのベランダの前の空中で音もなく制止した、どうやら内部を窺っているように見える。
カラカラカラ……
サッシ窓が開く音が微かに響くと、蟲はその音に導かれるように内部に入ってゆく。
しばらくして出てきた蟲を見て僕は驚愕した――子供だ! 蟲がまだオムツも取れないくらいの子供をぶら下げて出てきたのだ!
その様子に再び『ゾクリ』と寒気を感じて、僕はまた走り出した。蟲の真下めがけて、まっしぐらに。
走っている間に、蟲が子供を放したのが見えた。子供がまっすぐに落下していくのが見える。
『くそ、やっぱりか!』
僕は走る、狂ったように走る。
目の前1mぐらいに、落下してくる子供が見える。間に合わないか!
…………
………
……
僕は跳んだ。跳びながら体を仰向けにして、子供の下に飛び込んだ。
ズシン。
子供は僕の胸の中にハマるように収まった。ミシリ、と何かがきしむ音がする。猛烈な衝撃、撃たれたらこんな感じ?
「大丈夫か?!」「きみ、大丈夫か!」
周囲の大人たちが騒ぐ中、意識が遠のいていく……仰向けになった僕の視界の中は、相変わらずネオンの花畑に埋め尽くされていた。その花畑の上空に、あの半透明な蟲が浮いている。
やばい、意識が遠のく。救急車のサイレンが聞こえる中、僕は気を失った。
◇
ろっ骨数本と腕に若干のヒビが認められるものの、僕の体に大きなダメージは無かった。精密検査の結果が出るまでは入院生活だが……。
子供の両親がお見舞いに来て、泣きながらお礼を言われた。病室から出てゆく両親と子供を見送り、部屋に一人になると僕の脳裏は数日前から湧き上がった不安でいっぱいになる。
『あの蟲は、邪魔をした僕をどう思っているのだろうか?』
その考えが、ずうっと頭の中から離れない。昆虫には脳が無いので感情と云うものが無いと聞いたことがあるが、それはあくまでふつうの虫の話だ。あの巨大な半透明の蟲が、ごく普通の虫の範疇に納まっているとは考えられない。
子供を襲ったのだってそうだ。あれは食べるとかそういったことではない、何か別の行動規範によるものだ。
考えているうちに恐ろしい考えに行着いた。
あれは〝死〟をもたらすモノなのではないか?
予定調和として運命づけられた、〝死〟を運んでいるのか?
思わず病室の窓を見つめる。あの窓の外に、あの蟲が、〝死〟が停まっているとしたら?
「あああああああああああ!」
怖い! 怖いよ!
「何を騒いでいるの?」
看護師さんが入ってきた。
「少しは換気しないとダメよ」そう言って、窓に向かう。
「ダメです! 窓は開けないでください!」
「え? ゴ、ゴメン、余計なことしちゃって……」
僕のおかしな剣幕に、看護師さんは思わず窓から離れる。
「僕こそすいません、ちょっと落ち着かないので……。ところで看護師さん、この病院に眼科は有りますか?」
「一応あるけど……なんで?」
「眼底に色を付けて、緑内障の眼底検査をして欲しいんです」
「? なんで今そんな事を?」
「視えないと困るんです」
「そ、そう? そう言うなら、先生に話をしておくわ」
そう言って、看護師さんは出て行った。
そう、視えないと困るのだ。僕は窓の外を、まじまじと見つめる。
〝死〟が迫ってきているのなら……いや、〝死〟はもう、すぐそこまで来ているかもしれないから。そう、このベッドのすぐそこにまで。
了
視えないと困るんです まちかり @kingtiger1945
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