真夜中の終わる五分前

三角海域

真夜中の終わる五分前

 深夜帯のアルバイトを選んだのは、時給が昼間よりも良いからというだけの理由だった。

 大学への進学と共に、僕は一人暮らしを始めた。支援してくれる親に甘え続けるわけにもいかないので、バイトをして、少しでも自分でお金を稼がなくてはいけない。それなら、少しでも稼ぎのいいものを選択したいと思った。

 そうして始めた、深夜のアルバイト。

 品出しをしたり、発注をしたり、時折来る酔っ払いの支離滅裂な注文をきいたりと、思っていた以上に大変ではあったけれど、少しずつ仕事を覚えて、今ではなんとかこなせるようになっていた。

 元々要領が良いわけではないから、今も苦労はするけれど、なんとかやってはいる。

 いや、正直、何度か本気でやめようかと思ったこともあった。

 けれど、僕をこの職場に繋ぎ止めているものがある。

 それは、一人の女性。

 僕は、彼女に恋をしているのだ。



 仕事を終えた僕は、いそいそと着替えをすませ、外に出た。

 ごちゃごちゃした町も、平日の深夜ともなれば静かなもので、空気もどこか澄んでいるように感じられる。

 周りを見渡すと、少し先に、彼女の姿を見つける。

「樋口さん」

 僕の呼ぶ声に、樋口さんは振り返る。

 足早に歩き、僕は樋口さんの隣に立った。

「お疲れ様」

 樋口さんはそう言い、微笑む。見惚れてしまいそうになるのを抑え、僕も「お疲れ様です」と返した。

「宮内君は、明日はお休み?」

「午後から講義があります」

「大丈夫なの?」

「はい。元気はあり余ってるんで。帰ってすぐ寝れば、それなりに休めますから」

「すごいね。大学、家から近いんだっけ?」

「そのために引っ越してきたってのもあるんで。自転車で行ける距離ですね」

 深夜。声を抑え、二人で歩く。そんな静かな時間が、とても心地よい。

 樋口さんは、僕よりも二学年上の三年生で、美術系の大学に通っているのだという。

「ねえ宮内君」

「はい」

「夜って、色々種類があるじゃない?」

「種類?」

「そう。夜中とか深夜とか、未明とか」

「言われてみればそうですね。でも、それがどうかしたんですか?」

「なんだか、面白くない? 同じ夜でも、そうやって区切られてるっていうのが」

 そう語る樋口さんの目は、きらきらと輝いている。大人しく、静かな樋口さんだが、時折こうして、目を輝かせて思っていることを話す時がある。

「考えたことなかったですね」

「私はね、真夜中って言葉が好き。夜の真ん中って、なんだか素敵だなって」

「真夜中ですか。どれくらいの時間なんでしょう」

「一応、基準はあるみたい。色々捉え方があるみたいだけど、私は、午前〇時が真夜中って捉えてる」

「〇時限定ですか?」

「うん。午前〇時から一時までの一時間。そこが、夜の真ん中。そこから先は、夜が深まって、そのうち朝が来るだけ。だから、私の中で、真夜中って特別なんだ。その時間帯だけは、なんだかいつもよりも強くなれる気がして。迷ってることとか、一歩踏み出したいなって時は、真夜中に決断したりしてる」

「面白いこと考えてるんですね」

「あ、からかってるでしょ」

「そんなことないですよ」

 僕がこの人のことを好きだと思ったのは、こんな風に、色々と面白いことを考えられる、想像力の豊かさにもある。

 この人には、どんな風に世界が見えているんだろう。できることなら、僕も、樋口さんの目線で世界を見てみたい。そう思ったんだ。


 

 樋口さんと仲良くなったきっかけは、とても単純だ。それは、歳が近かったから。

 互いの大学生活のことや、そこで感じているストレスだったり楽しいことだったりを話しているうち、僕らは友人になった。

 樋口さんはプロの絵描きを目指していて、あれこれと苦労をしているらしい。良い絵を描けるというのは大前提で、それだけではプロの世界にたどり着くことはできない。自分にしかできない表現を見つけなくてはならないのだと話してくれた。

 僕は、別段何か目標があるわけではない。

 高校を出て、そのまま就職を考えていたが、両親が大学への進学をすすめてくれた。

 何かを見つけに大学へ行くのも良い。両親はそう言った。

 本を読むことが好きだったので、僕は文学を研究する学部へと進んだ。

 それなりに楽しい日々を過ごしている。けれど、樋口さんのように、何かに本気で打ち込んでいると言えるものは今のところなかった。

「探すことって、自分の中にあるものを掘る作業でもあると思うんだ」

 樋口さんにそんなことを相談した時、返ってきた言葉がそれだった。

「掘る?」

「うん。あれもこれもって、とにかく触れてみることもいいのかもしれないけど、自分が今まで生きてきた中で触れてきたもので、これが好きだったってことあるじゃない? そんな、自分の好きを拡張できるようなものを探せれば、それがやりたいことに繋がっていくんじゃないかな」

 とても真っすぐな言葉だと思った。

 自分のやりたいことを探すのだから、自分自身を知ることだって大切なのだ。

 このやりとりをきっかけに、樋口さんとより仲良くなれた気がした。

 僕の恋の始まりは、あの時のやり取りがきっかけだったのかもしれない。

 自分の夢や目標をしっかり決めたら、樋口さんに自分の思いを伝えようと考えていた。

 目標が明確で、そこに向けてひたむきに努力を続ける樋口さんの隣に「特別な関係」として立つには、僕もそんな目標を見つける必要があると思ったからだ。

 いつか。いつかは、きっと。そう思っていた。けれど、そんな僕の考えは、ある時急に崩れさってしまった。

「やめる?」

 いつもの夜の帰り道。樋口さんは僕に、バイトを辞めると告げた。

「うん。この前、大学に画家の方がいらしゃって、私の絵を気に入ってくれたらしいの。それで、自分のアトリエでアシスタントをしないかってお誘いがあって。身近でプロの仕事を見られるなんて、すごいことだよね」

 樋口さんは、嬉しそうに言う。本当に、心から、嬉しそうに。

 このまま、終わるのだろうか。

 このまま、何事もなく、樋口さんとお別れをして、それでも僕の日常は続いていって。

 それで、いいのだろうか。

 なんとなく、腕時計を見た。

 時刻は、午前〇時五十五分。

 真夜中の終わる、五分前。

 真夜中は、特別。樋口さんの言葉を思い出す。

 その時間だけは、強くなれる気がする。

「樋口さん」

「うん?」

 夜よ。僕にも、強さをくれ。

「僕、樋口さんのことが好きです」

「え?」

「好き、なんです。夢にまっすぐな所とか、自分の感じている世界をきらきらした目で話す所とか、まっすぐな言葉をかけてくれるところとか、とにかく、僕は樋口さんの全部が好きなんです」

 一度好きだと言葉にすると、思いがどんどんあふれ出してくる。

「本当は、ちゃんと自分の目標とか、夢とか、そういうの見つけてから思いを伝えようと思ってたんです。樋口さんの隣に、友達以上で並ぶなら、そうじゃないとって。でも、まだ、見つかってないんです。けど、ここで終わりにはしたくないんです。だから、その、ごめんなさい」

 頭を下げる。そこで、我に返る。何を言ってるんだ僕は。

「なんで宮内君が謝るの」

 頭上に、樋口さんの声が響く。

 顔を上げると、樋口さんはおかしそうに笑っている。

「別に、バイトを辞めても宮内君とは連絡を取るつもりだったけど。だって、お互いに連絡先知ってるじゃない」

「あ、いや、そうなんですけど、あれじゃないですか? 繋がりがなくなったら、連絡とか勝手にするのよくないんじゃないんですか?」

「私はバイトを辞めても、宮内君とは連絡とろうって思ってたよ」

「そうなんですか?」

「うん」

 なんということだ。焦りすぎた。これでは、自分で関係を壊しに行ったようなものじゃないか。

「あのさ、宮内君の夢見つけるの、お手伝いできないかな」

「え?」

「だって、それを見つけたら、思いを伝えようって思ってくれてたんでしょ?」

「ええ、まあ、はい」

「じゃあ、早く見つけてもらわなきゃ。お返事は、それからでいい?」

 樋口さんは少し頬を赤らめて言う。

「それって、あの……」

 樋口さんが僕の手を取る。

「一緒に見つけようよ。宮内君のやりたいこと。それで、二人でそのやりたいことを実現させるの」

「……いいんですか?」

「うん。けど、それまでは、答えは保留、ね?」

 樋口さんが、僕の手を引っ張る。

 腕時計の時刻が見えた。

 深夜一時。真夜中の終わりをしめしていた。

 見つけていこう、これから。

 夢でも、なりたい自分でも、どんな言い方でもいい。

 この人と一緒に、追いかけられる大切な何かを、見つけよう。

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