記憶攫い

作倉

記憶攫い


 その日の朝、私はいつものように両親と共に朝食を食べて身支度を整え、母親からお弁当を受け取ったあと玄関でローファーを履いていた。立ち上がってコツ、とつま先を玄関の床に叩き、「さぁ行くか」とドアノブに手をばしたとき……がおかしいと気づいた。しかし、一体何がおかしいのか分からない。急に体調が悪くなったわけでも、忘れ物に気づいたわけでもない……。一瞬にして空気が変わったとでも言ったらいいのだろうか。後ろに気配を感じ、母親が来たのかと思い振り返ろうとしたが……。


「ミサキ、ちょっといいかしら」


 母親のその声で、私は思い出したのだ。

 ドアに体当たりするかのような勢いで外に飛び出す。これは、きっと、



記憶攫きおくさらい】の仕業だ。




 それはまだ私が小学2年生の頃の話。クラスメイトの女の子が事故だか事件に巻き込まれて入院することになった。私はそれほど仲が良かったわけではないが、別のクラスにいた幼馴染みが1年生のときにその子と同じクラスで仲が良かったとか何とかで、私と二人でお見舞いに行くことになった。普通であればどちらかの親と一緒に行くべきなのだろうが、その病院が通学路の脇にあったもので下校途中に寄ることになった。私は大して仲良くなかったわけだし、その日は授業中も何を話せばいいのか考え込み少しドキドキしていた。そして約束通りに幼馴染みと病院に向かった。病室に入り、その子が横たわるベッドに歩み寄って名前を呼んだ。すると彼女は、


「あなた、誰?」


 そう、私に問いかけた。


 初めは名前すら覚えてもらっていないのかとショックを受けたが、後からクラスメイトの話を聞くとそのような反応をされたのは私だけではなくお見舞いに行ったみんながそうだったようだ。何らかのショックで記憶喪失になった……らしい。私も幼かったので詳しいことは聞かされていない。その子は何故かすぐに転校してしまい、その内変な噂が立ち始めた。


「記憶攫いのせいだってよ」


 クラスの男の子が声を低くして言った。それを聞いていた数人の女の子が「キャア」と怖がったような、それでいて楽しいといったような悲鳴を上げた。男の子は気をよくしたように「ふふん」と笑った。


「ねぇ、ミサキちゃんも聞こうよ」


 私のクラスまで遊びにきていた幼馴染みが服の袖をつまんで言った。


「う、うん」


 あまり怖い話は得意ではないのだが、幼馴染みに誘われるがままにその子達の輪に近づいた。


「普通さ、記憶喪失って頭ぶつけたりなんかの病気でなるもんじゃん。でもあいつ事故に遭ってないみたいだし、それまで元気だったのに急に病気で記憶なくなるって変じゃね」


 男の子は取り囲んでいる女の子達の顔を見ながら言った。


「でも、私小説で読んだけど嫌なことがあってもそうなっちゃうことがあるみたいだよ?」


 眼鏡をかけた女の子が言った。


「嫌なことって?」

「私が読んだ小説だと、殺人事件を見ちゃったり、自分の大切なものをめちゃくちゃにされたりとか」

「でもそんな事件ないじゃん。大切なものはよく分かんねぇけど」

「ねぇ、さっき言った記憶攫いって?」


 誰かが男の子に問いかける。


「あ、そうそう。それでさ、記憶攫いってのは……襲った相手の記憶を奪うんだって」

「えー、何それー」

「それがその通りの意味なんだって。記憶をこう……奪って、食べるらしい」

「意味わかんない」


 最初は食いつきはしたものの、女の子達は何とも的を射ない言い方をする男の子の話に早くも飽きたようだ。慌てたように男の子は話を続ける。


「あとなんか! 登校途中は気を付けた方がいいって聞いた!」

「何でー?」

「だってあいつ、登校中に病院に運ばれたらしいじゃん」

「えー、そうなの?」

「ほんとほんと!」

「私いっつも一緒に来るのに全然見なかったから風邪とかで休むと思ってたけど」

「え、じゃあ何で登校中に……」


 その時、休憩時間が終わるチャイムが鳴り響き話の実態は分からないままお開きとなった。しかしその数年後も2回ほど身の回りで同じようなことが起きたり、似たような体験をしたとかいう人の話が上がる度に「記憶攫い」には嘘か誠が分からない尾ひれがついていくのだった……。


 玄関で違和感を覚えたとき、私はその記憶攫いの話を思い出したのだ。本当に、本当にこれがそうだとしたら……捕まらないように、逃げなければならない!

 母親を無視して外に転がり出る。確かにあれは母親の声をしていたが、直感的にちがうと感じた。仮に本物だったとしても帰宅してから適当にごまかせばいい。というより、逃げると言ったって……どこへ? 思い出せ、思い出せ……きっと尾ひれの中に解決に辿る糸はある。捕まれば最後……私は、記憶を奪われてしまう。私の足は自然と学校へと向いていた。しかし……。


「えっ、何で……?!」


 曲がり角の先には昨日まではなかった壁。高校に行くときは必ずと言ってこの道を通る。でもこんな道、私は知らない……! そして、誰もいないのだ。だって登校時間だし、いつもは高校生に限らず小学生や中学生、通勤途中のサラリーマンも玄関周りを掃除する主婦もいるのに、昨日まで見かけていた姿がなにひとつない!

 記憶攫いの尾ひれ……今までいた世界と似てはいるけどどこか違う異世界に迷い込んでしまう、というのは本当だったのか。どうしよう。だとしたら高校に行くにも時間がかかってしまう……。


「ミサキちゃん、どうしたの」


 後ろから聞き覚えのある声がした。近所に住んでいる叔母さんだ……でも、やっぱり変だ。違和感が拭えない。


「あら、制服に糸くずがついているわよ。取ってあげるから……」

「!」


 ザッ、と靴が地面を擦るが聞こえ、私は咄嗟的に近くの家の庭に転がり込んだ。どうしよう。姿は見ていないけど、あれが記憶攫いなの……? どうして、どうして私が次の対象に……。記憶を奪われるということも怖いが、変な世界にひとりぼっちになってしまったことが何よりも怖い……。庭の隅で膝を抱え、私は少しだけ泣いた。それはつい数分の間だけだったが、まるで何時間も経ってしまったような感覚に陥る。私は手のひらで頬を拭い恐る恐る立ち上がった。叔母の声はあれっきり聞こえてこないし、誰かが近くにいる気配も感じない。ほっと胸を撫でおろす。あ、そういえばスマホって……カバンからスマホを取り出してみるが圏外。まぁ、当然といえば当然か……。庭から出てとぼとぼと来た道を戻る。一体どこへ行けばこの世界から解放されるのだろう……。

 別の道から高校を目指すがやはり微妙に道や建物がちがう。シャッターは閉まっているが見たことのない店があったり、コンビニがあった場所は駐車場になっている。もし高校に辿り着いたとして……何も変化がなかったら、その次はどうしよう。正直、記憶攫いのことは真面目に聞いていなかったし尾ひれのこともあんまり覚えていない。何か思い出したら芋づる式にすべて思い出すとかできないかなぁ……。


「あ」


 目の前には大きな病院。ここ、私が聞いた中では初めて記憶攫いに遭った子が入院していた病院だ……まぁ、本来はちょっと違う場所にあるのだが。ただでさえ病院って夜とかに見ると怖いのに、こういう時に見るとすごく怖いんだな……早く通り過ぎてしまおう。なるべく病院を見ないようにして脇道を通っていると……コツ、と革靴が地面を叩く音がして私は硬直してしまった。


「お嬢さん、体調が優れないようだけどどうしたのかな」


 男性の声。これは、知らない声だ。


「大丈夫? 何かあったのかい」


 何だか優しそうな声。その音に涙腺がじわりと緩む。でも、これだって罠かもしれない。母親や叔母に化けた時のように、私を捕まえに来た記憶攫いなのかもしれない……。


「僕はそこの病院で働いている医師なんだ。診療を……」


 私は喉まで出かかった声を必死に押し殺し、走った。もしかしたらたった一人の味方だったかもしれない。今までとは違い何の判断材料もないから戸惑ったが、私は逃げるという選択をした。



――助けて! 誰か……誰か、私をこの世界から出して! 元の世界に戻して……!!



 必死に走った。曲がり角があれば曲がり、道がなければ家の庭を通って反対の道に出て、私はめちゃくちゃに走っていた。つま先がローファーの中で擦れて痛い。汗と涙で顔はぐちゃぐちゃだし、恐怖と緊張で心臓はずっとバクバクしている。走り疲れた頃、肩で息をしながら知らない角を曲がると……。


「……高校、だ」


 見知った高校に辿り着いた。いつもであれば徒歩15分程で着くのだが、今日は一体どれ程の時間がかかったのだろうか……下駄箱に向かい、自分の上履きを探してみた。……あった。あるものなんだ……。これは、中に入るべきなんだろうか。もし校舎内で見つかれば外とちがい閉鎖的な分逃げにくいかもしれない。私はどうすべきか……上履きをぽつねんと眺めていると、視界の端に女生徒の足が映った。


「ミサキ、おはよ」


 それは幼馴染みの声だった。……おかしい。いつもの、幼馴染みの声なのだ。安心すべきところなのだが、何かが、おかしい。


「どしたの? 上がんないの?」

「……あんた、誰」

「え、ちょっとどうしたの、幼馴染みの――だよ」


 声がうまく聞き取れない。


「ミサキ、授業に遅れちゃうよ」


 視界の端で足をぶらぶらとさせる女生徒。これは、一体、誰?


「ねぇ……何で入んないの」

「あんた、本当に私の幼馴染み?」

「ミサキ、本当にどうしちゃったの。私のこと忘れたの?」

「ちがう……私に、幼馴染みなんて、いない」



――そう、いない。最初から幼馴染みなんて、いない。


 記憶攫いの尾ひれ……記憶の片隅に、そいつは潜んでいる。身近な人物として。私は小学校に上がるちょっと前にこの地に引っ越してきた。だから、あの時点で幼馴染みがいるなんておかしな話なんだ。どうして……どうして今までそんなことに気が付かなかったのだろう。


「……幼馴染みだよ?」

「ちがう。いないの。私の生まれはここじゃないし、あんたなんて、知らない……!」

「ねぇ、早く上がってよ」

「上がらない」

「早く」

「嫌だ」

「早くこっちに来いって!」

「!!」


 女生徒が苛立ったように私に手を伸ばしてきた。私は身を翻して校舎から出ようとした。その時だった。


――キーンコーンカーンコーン……


 学校の、チャイムの音が鳴り響いた。

 そして目の前には何人もの生徒。


「え……?」

「ミサキおはよ! まじ時間やばいって! ホームルーム遅れる!」

「え、あ……うん」

「……どしたの? 変な顔して」


 見知った顔の友人が心配そうに私の顔を覗き込んできた。戻って……来れた?


「私、戻って来たんだ……」

「え……何、怖いんだけど」

「よかった……ほんと、よかったぁ……」


 涙が頬を伝う。突然泣き出す私に、友人だけではなく急いで教室に向かおうとする他の生徒も驚いたり引いたりしていた。でも私は構わずに泣いた。結局この日は遅刻した。

 その後記憶の糸を辿り、記憶攫いについて思い出せる限りのことを思い出した。記憶攫いは対象の記憶に潜み、対象にとって身近な人物となる。私の場合は幼馴染みになっていたわけだ。そして記憶攫いに触られたり捕らえられると記憶を奪われてしまう。もしくは、対象が向かう先……例えば学校とか会社をテリトリーとしているため、そこに引きずり込まれてしまっても駄目らしい。つまりあの時上履きに履き替えて中に入っていれば……そう考えると背筋がゾッとする。奪われた記憶はどうなるかというと、記憶攫いに食べられてしまうそうだ。そうして記憶攫いは生きながらえているとか何とか……。と言っても捕まってしまった人はその記憶がないし、私含め何とか逃げ延びた人はその時は逃げるのに必死だから憶測で語る部分も多いのだが……。



「さて、と……行ってきます」


 私は買ったばかりのスニーカーを履き、外に出た。あれから私は、毎日の登校時には違和感がないか、道に変化はないか確かめざるを得ないようになっていた。


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