『夕霧物語』「夕霧太夫が道行」
「伊左衛門さん、本当によいのかい?」
禿仲間のひいらぎが申し訳なさげに言った。
「いいですよ。今夜の賄い役はあたしが代わりにしてあげます」
「ありがたいけど、本当に本当によいのかい?」
12月の寒い日の裏庭、汲み置きの冷たい水で大根の泥を洗い流しながら、あたしとひいらぎはそんなやりとりを続けていた。
今晩は
道行というのは、月に一度行われる顔見世興行のこと。
この遊里の名だたる遊女たちが、ここぞとばかりに着飾り従者を大勢引き連れて中道を練り歩く。
その道行に、この度夕霧太夫が一年ぶりに出御なさる。
当遊里一の妓楼、阿波の鳴門屋の名妓、夕霧太夫が久しぶりに道行を行う。
街道中、その話題で持ちきりになったのは言うまでもない。
夕霧太夫は、あたしがゆびきりを頂いた夜よりしばらくして、病の床に伏せられた。
お店をあげ、手を尽くして治療をしたが、一向に良くなる気色もなく、夕霧太夫はどんどん痩せていってしまわれた。
旦那衆もお店の方々もみんなが大騒ぎしてたけど、あたしはあのお言葉が本当になったと悲しいながらも落ち着いた気持ちでいた。
やがて、口の悪い輩が「遊女病み」と噂しはじめた。
身中が腐り、肌が土色になって最後は全身の穴という穴から血を吹き出して死んでしまう流行り病。
罹る人が皆、遊女と遊里に入り浸っていた男衆ばかりだから「遊女病み」。
噂のせいで誰もが嫌気して夕霧太夫に近寄ろうとしなくなったけれど、あたしはずっとお側についてお世話をしていた。
だから誓って言うけれど、夕霧太夫は遊女病みなんかじゃない。
その証拠にどんなに痩せていかれても、お肌はこれまで通りつややかでお美しかった。
あたしなんぞが拭ってさしあげられると、愉悦に浸っていたくらいだ。
そんな夕霧太夫が、
「伊左衛門、主をよんでおくれ」
といってお
「今度の道行、あたしも出たい」
店の主は一瞬喜んだものの、夕霧太夫のお姿を見て、
「もう少し、よくなられてからがよいでしょう」
とお断りを申し出た。
しかし、夕霧太夫が頭を下げ玉の緒を絞るような声で、
「せつに願います」
と言うものだから店の主も折れて、
「ならば、店の前だけを」
とお許を出したのだった。
その時あたしは「夕霧太夫が道行」を心底観たいと思った。
しかし、次第に観てはいけないような気がしてきていた。
それは、きっと夕霧太夫のお別れの挨拶だから。
この遊里の皆へのお礼を兼ねた夕霧太夫最後の興行だからだ。
でも、あたしは夕霧太夫とはお別れをしない。
お約束を守って青墓の杜までお連れする役が待っている。
だから、
「ひいらぎさん、この間の道行を観られなかったじゃないの」
「そうかい? そんなら遠慮なく」
あたしは、お店で夕霧太夫のもしものときに備えることにした。
日が暮れたころから、表の中道に人があふれ出した。
時刻は道行興行まであと
あたしはひいらぎとの約束通り、いつもより忙しい賄い役に暇なく動き回っていた。
前が見えないほどの御膳を積んで廊下を走っていると、あるはずのない壁にぶつかった。
盛大に御器と料理を散らかして尻もちをつくと、目の前に大男が立ち塞がっていた。
まめぞうだった。
まめぞうは夕霧太夫の御付の者で、その背丈ゆうに7尺半の大男。
「おてんとさまの油注ぎ」とあだ名され頭はいつも鴨居の上にある。
その容貌が示す如く大食国から流れ着いたもので、もとは清家の奴婢だったが、その清家が没落し手放すこととなり、さだきち、りすけという同族の者と共に夕霧太夫が買い取って御付にした。
そのまめぞうが、無言で何かを差し出してきた。
見れば千代に折られた文だった。
まめぞうが大皿くらいはある掌を突き出して読めと促す。
「やまのおにこじんじやにまゐれ」
美麗な筆跡は夕霧太夫のものだった。
いつとも、誰とともなかった。
まめぞうに聞こうにも、この大男には言葉がない。
あたしは、その場も放ったらかしで急ぎ支度をした。
鬼子神社はここから遠い。遊里を見下ろす裏山の、そのさらに上に聳える神山の中にある。
急がなければ、夕霧太夫の想いは届けられぬかもしれない。
そう思うと気がせいてならなかった。
あたしは一旦お店の外に出たが、忘れ物を取りに戻った。
ゆびきりが必要だと思ったからだ。
いつもは大事に文箱にしまって油紙で包み床下に埋めているが、何故だかそのときは必要になると思ったのだった。
土を掘り返し文箱を開けてゆびきりを取り出す。
いつ見ても不思議だが、夕霧太夫のゆびきりはその御手にあったときのままお美しかった。
あたしはゆびきりを愛でる間もなく懐にしまうと厨房裏を通って外へ。
通りに出たとき、店の中から、
「夕霧太夫が道行き、ご
と声があがった。
あたしが足を止めて店を覗くと、
従者に手を取られ盛儀の装いで泰然として大階段を下りてこられる夕霧太夫が目に入った。
お美しかった。別品、絶世、傾城とは夕霧太夫のためにある言葉。
この世のものとは思えぬそのお姿に触れ、あたしは涙がとまらなかった。
その時夕霧太夫と目が合った。
その目が「たのみます」と言っていた。
あたしは遊里を後にした。
きっと夕霧太夫が想う時に参らねば。
あたしの必死がその時を定めてくれる。
そう信じて、あたしは夜の山道を駆けに駆けたのだった。
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