「辻沢ノーツ 3」(行旅死亡人)
学生課に行って大学発行の調査依頼書をもらおうと思ったら、親の許諾を取って来いって。
それであたしには親族いないと言うと、その職員さんは「ひっ」と言ったきりしばらく黙ってしまった。
そしてめっちゃ事務口調になって、指導教員で代用できるけれど親族がいないことを証明するため戸籍抄本を添えて出してくださいって。
で、今日は区役所に寄ってから大学へ行く。
昨夜はバ
頭ガンガンするから行くのやめたかったけど、提出の締切が明日らしいから仕方なく出かける。
区役所には早く着いた。苦労して取りに来たわりには拍子抜けするほど簡単に抄本が手に入った。
バスの時間までなんとなく官報の掲示板を眺めていると、ある記事が目に止まった。
「行旅死亡人」
身寄りのない病死人とかも言うらしいけど、いわゆる行き倒れのこと。
記事には顔貌や年恰好、持ち物、発見された日時と場所が事務的に書かれてあった。この人は力尽きた時、どんな風に世間が見えてたんだろうか。
通学路の坂道で出会った山吹の人のことが頭を過った。
あの時山吹の人の目に映るあたしは薄情な人間じゃなかっただろうか。
アパートの近くのあの坂道。大学の行き帰りに必ず通る坂道で、そこに昔風の門構えの医院があって、その垣根には毎年山吹の黄色い花が目が痛くなるほどいっぱい咲く。
去年の今頃も、山吹が満開に咲いていた。
あたしがその美しさに魅かれて垣根に近づいて行くと、花の下に黒い大きな塊が置いてあった。
はじめはゴミ出しの袋だと思ったが足を止めてよく見たら、それがごそごそと動いて近くにあったコンビニ袋に手を伸ばした。
それで寝そべった人だと気づいてびっくりして飛びのくと、その人はあたしをちらと見上げた後、手に取った袋から赤黒い塊を引っ張り出して口に持って行き、それをむしゃむしゃと音を立てて食べだした。
あたしは気味が悪くなって、走って逃げようとしたら背後から、
「待って」
と声がした。
嫌な感じがしたけれど恐る恐る足を止めて振り返ると、その人はこっちに手を伸ばしてその赤黒い塊を差し出していた。
まるで喰えって言ってるみたいに。
戸惑いを感じながらも、その塊を見ていると、やがて掌の上でそれが融けだして指の間から血の色の糸を引いて落ち、地面に赤黒い溜りを作った。
それであたしはますます怖くなって、今度こそ坂道を全力で走って逃げた。
駅にたどり着いたときは息切れで苦しかったけれど、どうしてもその人のことを思い切ることが出来ず、大学に遅刻するのを覚悟して、もう一度あの医院の前に戻った。
でも、その人はもういなくなってた。
当たり前に考えたらきっとそのあとすぐにどこかに行ったんだろう。
でも、どうしてもそう思えない。
いつもは姿は見えないけどずっとそこに存在していて、その時はなにかの拍子で見えてしまったような気がしてならない。
そしてこのことはあの坂道を通るたびに蘇えってくるようになったのだった。
今日はバイトがなかったから、講義が終わってまっすぐアパートに帰った。
帰り道、山吹が咲いた医院の前を通ると、いつもの女の子に会った。
その女の子はこの医院の入院患者さんらしく、夕暮れに前を通ると医院の傘付きの門灯の下にパジャマ姿で立っているのをよく見かける。
あたしはその女の子と一度も話したことがないし名前も知らないけど、あたしを見つけるといつも手を振ってくれるのだ。
今日は看護士さんと一緒で、玄関脇の山吹を手折ってもらっているようだった。
きっと病室の花瓶に飾るんだろう。看護士さんは片手いっぱい山吹の花を抱えていた。
女の子があたしに気づいてくれたので手を振ると、にっこりと笑って手にした山吹の一枝を振って応えてくれた。
あたしはあの人が山吹に化身して女の子の病室を飾るという妄想に浸りながら、坂道を後にした。
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