今宵、バーにて
ピート
それは酔いどれてフラリと入った、小さなバーでの事だ……。
カウンターだけの小さな店だった。初老の紳士が一人、静かにグラスをかたむけている……。
カウンターの中では、バーテンダーがリキュールボトルを丁寧に磨いている。薄暗くもない、適度な明るさの照明が不思議な雰囲気をかもしだしていた。
些細な事が原因で、夜の町を飲み歩いていた俺は、店の持つ不可思議な雰囲気で、一気に酔いから現実に引き戻された。
「いらっしゃいませ」席に着くべきか悩んでいた俺にバーテンの声がかかった。低く物腰のやわらかい、その声に身をまかせるように、紳士から少し離れた席に腰をおろした。
「何になさいますか?」
「……バーテンさん、俺こういう店初めてなんだよ。メニューとかはないのかな?」テレ臭そうに、でも正直に訊ねた。そうした方が、ゆっくりと楽しめると思ったからだ。
「そうですねぇ、頼んでいただければ大抵のモノならお出しできますよ」バーテンは優しく微笑む。
「じゃあ、カクテルにしようかな。そんなに甘くないものをお願いできますか?」
「ベースは何になさいます?それとも、お任せしていただけますか?」バーテンは少し嬉しそうに訊ねた。
「お任せしますよ。居酒屋にあるカクテルぐらいしか知らないんで……」正直に答える。
「では、こんなカクテルはいかがですかな……」バーテンが、見事な手つきでシェイカーをシェイクする。
「これは?」目の前に出されたグラスを指し訊ねる。
「スティンガー・カクテルですよ。ブランデーベースのカクテルです。ブランデーが苦手でしたら、別のものを用意します」
「いえ、いただきます」グラスを手にし、一口飲んでみる。
口の中にミントの刺激が広がる。スッキリとした後味だ。
「美味いです。さっきまで飲んでた酒がなかったら、もっと良かったのに……」本当に残念だ。
「ありがとうございます」バーテンはニッコリ微笑むと、満足そうにまたボトルを磨きはじめた。
「他にもつくってもらえませんか?今夜は、飲みすぎてるから、あと1、2杯でいいんですが……」
「かまいませんが……帰れなくなりますよ」
「正体なくす程は飲みませんよ」
「わかりました、ではこちらを……」
先程と同じように、鮮やかな手つきで新たなグラスが置かれた。
真っ白い雪を思わせるグラスの縁の砂糖と、その中に沈んだミント・チェリーの緑が、俺を不思議な世界にいざなってくれるような気がした。
「これは?」
「雪国というカクテルです。ウォッカをベースにライムジュースを加えてあります」
「綺麗ですねぇ、飲むのがもったいないぐらいだ。……幻想的なカクテルですね」その美しさに口をつける事もなく、俺はしばらくグラスを眺めていた。
「お兄さん、帰りなさい」突然、老紳士が口を開く。
「大丈夫ですよ、綺麗なカクテルに見惚れていただけです……」
「魅入られているぞ……今なら間に合う、帰りなさい」まるで何かに怯えているようだ。
「これを飲み終えたら帰りますよ。今度は最初の一軒目で飲みにきたいですしね」
「時間が迫っておる、早く帰るんだ」凄い形相でそう告げる。
そんな様子を目の前にしながら、バーテンダーは、何事もないように相変わらずボトルを磨いている。
「バーテンさん、この店の名前はなんていうんです?」紳士の言葉を無視して、俺はバーテンに話し掛けた。
「ヒガンですよ」
「ヒガン?変わった名前ですね……何か意味があるんですか?」
「馬鹿!やめるんだ!」老紳士が言葉をさえぎる。
「意味などないですよ……」バーテンは老紳士の事など、おかまいなしだ。
「せっかくのカクテルがぬるくなりますよ」
「そうですね、いただきます」もう一度グラスを眺めると口をつけた。甘酸っぱい風味が口の中に広がる。さっきのミントの刺激も良かったけど、これもなかなか……カクテルってのも奥が深そうだな。
「ごちそうさまでした」
「さぁ、帰るんだ!」何なんだこの人?さっきから失礼だな。
「バーテンさん、会計を」
「けっこうですよ…」
「払いますよ、ごちそうになる理由がない」
「ほら、早く出るんだ!」席から、俺を引きずりおろすと、腕をひっぱる。
「会計を済まさないと帰れないよ。放してくれ!」だが、その力は強くなる一方だ。結局、俺は店の外に押し出された。
「二度と来るんじゃない!」目の前で、扉が叩きつけるように閉められた。
な、何なんだよ!入ろうと扉に手をかけたが、鍵がかけられたのか扉が開く事はなかった。
通りに出て、ふと周囲を見渡す……何処だ?見慣れない町並みが視界に広がる。でも、この風景をどこかで見た記憶がある……何処で見たんだろう?
酔いがまわってるんだろうか?店に戻った方がいいかもしれないな。
出てきた路地に戻る……が、その場所には民家が立ち並ぶだけでバーは見当たらなかった。どういう事だ?夢でも見てるのか?ありきたりだが、頬をつねってみる。痛い……夢ではないようだ。だとしたら、ここは何処なんだろう?
「おい、あんた」突然、背後から声をかけられた。
「何で、こんな場所にいるんだ?探求者か?」黒づくめの男が問いかけてきた。
「たんきゅうしゃ?」……何の事だ?
「違うのか?だとしたら、紛れ込んだのか」
「何を言ってるんだ?ここは何処なんだよ?」
「ここ?少なくともあんたの住んでいた世界ではないな。他に誰かに会ったか?」
「そう言われると人影すら見てないな」
「どう来たんだ?」
「俺はバーを追い出されて……わけがわからんから、戻ってきたんだが……」
「バー?あれの事か?」男が指指す場所には、さっきまでなかったバーが確かに存在した。
「あ、あぁ。おかしいな、さっきまでは本当になかったんだ」
「なるほどね……こいつをあんたにやるよ」手渡されたのは銀色の鍵だった。
「なんだ、この鍵?」
「扉の鍵さ。そこから自分の世界に帰るんだな」そう言うと男は立ち去ろうとした。
「おい、あんたは何者なんだ?」
「俺か?探求者さ……これ以上魅入られないようにな」男は路地を曲がり姿を消した。
「お、おい!」慌てて追い掛ける。
「来るな!バーが消えるぞ!」
「あんたはどう帰るんだよ」
「俺はまだ、する事があるんでな」
「この鍵だって、もらうわけにはいかない」
「じゃあ、帰ったら返してくれ、バーで会おう」
「あんたの名前は?」
「巧、椎名 巧だ。『BLACK OUT』ってバーのマスターに渡してくれたらいい」声はどんどん遠くなって行く。ふと後を見るとバーの姿がゆらめく。まるで、幻のように消えてしまいそうだ。
俺は急いでバーの扉を開いた。
「いらっしゃいませ……!?」バーテンが驚いた顔で俺を見つめる。
「どうかしましたか?支払いに戻ってきましたよ」店内を見渡す……老紳士は喜びと悲しみが混ざったような、不思議な表情を浮かべている。
「マスター、このゲームは私の勝ちのようだ。彼は戻ってきたんだからな……この店に」老紳士がつぶやく。
「いいえ、まだですよ。彼はこの店から逃れられない」二人とも何を言ってるんだ?
「会計はおいくらですか?」支払いを済ませてでよう。だが、それで元の世界に帰れるんだろうか?
「会計は済んでいますよ、あちらの方が支払われました」老紳士を見つめる。
「さきほどのお詫びですよ。さあ、帰りなさい。貴方の世界へ……」何がなんだか、わからない。老紳士の顔を改めて見つめる。どこかで会った気がする……。
「貴方と何処かでお会いしてないですか?」
「この店で会ったのが初めてですよ。貴方の事はよく知っていますがね」
「何故、俺を知ってるんだ?」老紳士は何も語らない。ただ、扉を指差すだけだった。
「ゲームって何なんです?」バーテンに問い掛ける。
「いずれわかりますよ。またのご来店をお待ちしております」ペコリと頭を下げると、バーテンはまたボトルを磨きはじめた。
何も語らない二人を背に扉に手をかける。が、扉は動かない。
「やはり、彼は逃れられないようだ」バーテンが嬉しそうにつぶやく。
「やはり、無理なのか」苦しげに老紳士がつぶやく。
この二人、何をしてるんだ?
扉を見てみる、鍵穴がある……!?さっきの鍵か?ポケットから取り出し、鍵穴に差し込んでみる。ピッタリだ…これで開くのか?
鍵をゆっくり回してみる。……カチャン、開いた。
「お前、何処でその鍵を手に入れた?」バーテンの荒々しい声が店内に響きわたる。
「振り向くな!帰るんだ!振り向けば魅入られるぞ!」老紳士が叫ぶ。
扉を開き、店から飛び出た。バタン!!荒々しく扉が閉じる音が背後で聞こえた。
周りを見渡す、見慣れた町だ。俺は帰ってこれたようだ。なんだったんだ、あの店は……。
振り向いたその場所には空き地が広がるだけだった。
あの日の出来事は、酔っ払いの夢だったんだろうか?
しかし、夢でなかった証拠に、俺の手には銀の鍵が残っていた。
探求者……椎名 巧……か。
数か月後、俺はバーを見つけた。
『BLACK OUT』確か、この店のマスターに渡せば良かったんだよな。
これで謎と疑問は全てとけるはず……。
そう、今宵、バーにて……。
Fin
今宵、バーにて ピート @peat_wizard
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