片瀬 4

翌朝は、青空が広がっていた。

あちらこちらで開け放たれる戸の音で目を覚まし、私は夜具から這い出した。

庭に面した戸から顔を出すと、湿った土の匂いがむんとした。眩しさに半目しか開かない目で、それでも見上げた空は、青く高く広かった。

目をこする。

空は、いつか見た南の海の色をしていた。

透明な青、けれど濃い青。そこに、綿を千切ったような雲が浮かび、ゆったりと流れている。

「きれいだなあ」

泣きたくなった。

そのままそこで体育座りをし、顎を目一杯持ち上げる。

この空の色を見れば判る。ここは、上守奈々子が居た世界じゃない。奈津姫の世界だ。

私だけが異質で、どこか汚れている気がした。

「お早う御座います」

その皺がれた大きな声に、私はぎくりとした。昨日、屋敷の前で出迎えてくれた初老の男が、腰を屈めて庭に立っていた。

「おはようございます」

慌てて膝を揃えて座り直し、頭を下げた。

「ワシは御屋敷の外回りをさせて頂いて居ります、忠助と申します。宜しくお願い申し上げます」

深く頭を下げる忠助に、いえいえこちらこそと、私も手をついた。

「此れは、此れは」

忠助の目元の皺が深くなった。どうやら微笑んだらしい。

「しげの申す通り、御腰の低い姫さまで在らせられますな」

そう言うと

「今、盥をお持ちしましょう」

ガニ股で歩き去った。

「お早いお目覚めでございますね」

背中から、さとの声がした。

「眠れませぬでしたか?」

気遣わしげに訊ねるさとに

「ううん、ぐっすり眠ったよ」

と首を振って見せる。

本当だった。温泉に浸かって、身も心もほぐれたのだろうか。この時代に来て、初めて熟睡できた夜だった。

そして、すっきりと目覚めてみればこの青空だ。

「気持ちのいい朝だね」

さとも傍にやって来て、二人で空を仰ぎ見る。

「本に久方ぶりのお天気でございますね。きっと、良きことが待っておりますね」

さとがにっこりと笑った。


「昼には城へ向かう」

一緒に朝餉を済ませたあとで、時隆にそう言われた。

これからのことを思い気が重たいのか、私への罪悪感なのか、目線を合わせない。

「志乃介に聞いた」

私はわざと見つめたままで言った。

「お父様と、たくさんのおじさまたちの前で、私が、香河山への援軍をお願いするのよね」

「左様だ」

そっぽを向いている。

まるで拗ねた子供だな。

私はふっと笑った。

時隆がこちらを見る。そして、何かを諦めたように言う。

「奈々が戦を好まぬことは良く解って居る、だが、」

「判りました」

私は手のひらを時隆に向け、言葉を遮った。

「ん?」

「判ったから。まだ時間あるよね?準備するわ」

「準備?ん?何が判ったのだ?」

ぽかんとしている時隆を残し、私は立ち上がった。

出かけるまでに、やっておきたいことがあった。


「私がお教えするのですか?」

目をまん丸にするさとを拝み倒し、この時代の姫らしい立ち居振る舞いってものを教えてもらう。

「姫様、それではお腰を落とし過ぎでございます」

「いえいえ、もっと、背筋を、こう」

物覚えの悪い私にヒートアップするさとの声。それに誘われるように、しげが途中から加わった。

「姫様、お顔が固い、笑って笑って」

どちらかと言うと、しげは茶々を入れて楽しんでいる。手を叩いて、大笑いしている。

「もーっ」

膨れる私が面白いと、さとも声をあげて笑う。

そんな賑やかさに、時隆も部屋を覗き込む。

しっしと追い払う私に、笑顔になり、それでも戸口に立って見ている。

足が痺れにくい正座の仕方。きれいな手のつき方。頭の下げ方。立ち上がりからの歩き出し。そして、失礼のない言葉遣い。

「お父様では無く、御館様、の方が良いのではないか?」

時隆も口を挟んできた。

はいはい。

メモを取る訳にもいかず、私は頭へ叩き込む。

こんなに脳みそを使うのは、大学受験以来かも知れない。

こんな付け焼き刃が、どこまで通用するのか判らない。

けれども、出来ることはやっておきたかった。

お昼までは、あっという間だった。

忠助が編んだと言う、新しい草履に足を通した。作り手のような、無骨で暖かな履き心地だった。

その暖かさに満たされ、時隆に連れられ、私は片瀬城へ向かった。

サムライ達の居館は、城のある丘の麓に連なっていた。時隆の屋敷は、城の大手門に近い一画にある。

安らぎに満ちた屋敷を出て、緩やかな上り坂を行く。

肩を並べるようにして時隆がいる。その前を、智充と正親が行く。私の後ろを守るように、志乃介とさとが続いている。その更に後ろには、時隆の供回り達が着いて来ている。

時隆が時折、周りを指差して言う。

「あの辺り、彼処で月に二度、市が立つ。賑わうぞ、そなたも行ってみると良い」

私の目を、遠くへ向けさせる。

「この杉には、幼い時分によう登ったものだな」

振り返る智充に笑いかける。そこから、何度も木から落ちたこと、降りれなくなって泣いた信賢のこと、楽しかっただろう子供時代の思い出に盛り上がる。

私の緊張や気負いを、和らげてくれている。そう解っていた。

分厚い門扉の大手門をくぐる。大きく開け放たれた扉の脇には、軽装のサムライが立ち、目礼を送ってきた。

入ってすぐの三の丸と呼ぶ廓には、櫓が立ち並んでいた。城が敵に攻められた時には、ここが最前線となるのだと言う。

上の二の丸には、国主である羽沢久顕の屋敷があった。そこからさらに上がれば、そこが城の本丸。戦時には、此処へ皆が詰めるのだと時隆が指す。

小高い丘の上。元々の地形を活かした山城。周囲を土塁で固め、重々しく近寄り難い。

それが、片瀬国を治める羽沢家の本城だった。

そしてそこには、国主の久顕と、余り友好的ではないであろうおじさま達が待ち構えている。

私は背筋を伸ばし、ふーっと息を吐いた。

それを横目で見ていた時隆が

「姫、其処」

と、私の足元を指差した。

「え?」

釣られて下を向いた私に

「ばふん」

短く言う。

「え、あ、ば、馬糞⁉︎」

慌てて飛び退いたら、草履がずるっと滑った。反射的に、隣の時隆の袖を掴んだ。それでも体勢を崩し掛ける私を、時隆がぐいっと抱き寄せ支えてくれる。

しがみついたまま、足元を恐る恐る覗き込む。

「馬糞、どこ?」

目をきょろきょろと動かす。

「嘘だ」

あっさりと答える時隆に、堪え切れないように正親が、信賢が爆笑した。智充は俯き、口元に拳を当てている。背を向けて、志乃介もさとも、体を震わせている。

「若、姫君が御気の毒ですよ」

たしなめる範臣の声も、笑いに震えている。

「もーっ」

突き飛ばすように時隆から離れ、ぱしりとその腕を叩いた。

「はははっ」

時隆が顔をのけ反らせ、嬉しそうに笑う。

口惜しいけれど、それで気持ちがほぐれた私は、ゆっくりとまた歩き出した。

太い丸太が組み合わされた門をくぐれば、広く屋敷が横たわっていた。堂々と、どっしりと。

軒を飾る瓦、漆喰の壁、太い柱。

そこが、片瀬城の本丸御殿だった。

時隆が、屋敷の正面で足を止めた。鋭い目線で前を見つめる。

こちらに面した戸は全て開け放たれ、人の気配に満ちている。

もう逃げられない。

屋敷の中を行き交う、サムライ達の姿が見える。

ここに立つ私たちは、あちらからどう見えているのだろうか。

私は、隣に立つ人の袖をぐっと握りしめた。その上から、大きな手が包み込んでくる。

「わしが居る」

時隆が言う。

「うん」

私は頷いた。

「行くぞ」

「うん」

行こう、一緒に。

私たちはそっと手を離し、足を踏み出した。

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