片瀬 2

遠くへ来てしまったな。

改めて思う。

私を乗せて、馬はのんびりと歩く。午後の空気が気だるい。

このままでは、時隆の父親に援軍をお願いすることになりそうだ。

逃げ出す場所はない。はいにしろ、いいえにしろ、正面から受け止めて答えを出さないといけないだろう。

考えなければならないことが沢山あった。なのに、ただぼんやりと私は馬上で揺られていた。

やっぱり、もう戻れないのかな。

見上げた空は、ますます雲の厚みを増しているようだ。今にも雨が降り出しそうに重い。

時折、生ぬるい風が吹いてくる。そうして、額に張りついた前髪を少しだけ軽くして、過ぎ去る。

真っ直ぐに伸びるこの道は、海まで続いている。

時隆がそう教えてくれたけれど、私が知る海とは、景色が違うのだろう。

帰る家はない。仕事も辞めた。人生最後の恋と、信じたかった人も失った。

それでも、生きていればいつかは会える。取り戻せる。その筈だった。だからこそ死のう、死ねると思った。

そこには、家も勤め先の幼稚園も、家族も、別れた恋人も存在するから。私が死んでなお、そこに在るものだから。

甘えていたのだと、今なら解る。

私が死ねば、みんな泣いてくれる。私が生きた証を惜しみ、それぞれの記憶の内に残そうとしてくれるだろう。

だから、死ねると思ったんだ。

私が居なくなっても、覚えていてくれる人が有るから。確かにここで生きていた、という足跡を残せるから。

でも。

例えば今、この時代で私が死んでも何も残らない。奈津姫に良く似た、不思議な女がいただけ。

母親が苦しみの末に産み落とした記憶。這い、歩き、笑い、泣いた成長も。

ここで馬に揺られているだけの私には、何ひとつない。

そんなんじゃ死ねない。死んじゃいけないのかも、知れないな。

ぽつりと、最初の一滴が落ちてきた。

手綱を握った右手に、雨粒がぼとりと。

「帰れないのなら、」

私は、そっと呟く。

「ここで、生きるしか、ないのかな」

落ちてくる雨粒の、その上の空を見上げる。

父親が好きだった歌を思い出した。

涙がこぼれないように、空を見上げる。そんな歌だった。

それは、何て孤独な人の姿なのだろう。誰とも分かち合えない悲しみを、独りこらえる。

そして歩く。

それでも歩くのか。

「降ってきたな」

時隆が右から馬を寄せて来た。

「うん」

「疲れたか?」

ううんと、私は時隆を振り向いた。

「大丈夫」

「左様か」

頷くと、また離れて行く。その時隆を、私は呼び止めた。

「ねえ、」

ん?と無防備にこちらを見る時隆に、気づけば笑いかけていた。自然と頬が緩んでいた。

「この子の名前ね、」

芦毛の馬の首を、優しく叩いて見せる。

「ああ」

「九にする」

「きゅう?」

時隆は首を傾げた。

「九つの、九」

「何故、九なのだ?」

「上を向いて歩くから」

私は、右の人差し指を空に向けた。

「天を向いて歩くと、九なのか?」

訳が判らんと言いたげな時隆に、私の声は一段と弾む。

「そう。元気が出るおまじないなの」

「左様なのか?」

まあ良い、と時隆は笑った。

「そなたがそうして笑うなら、九でも十でも良い」

そう、私は笑っていた。

大丈夫だ。

どうやら、全くの独りぼっちではないみたい。ならば、とりあえず歩こうか。この人に着いて行ってみようか。

少し前を進む、時隆の背中を見つめる。首を傾げながら、空を仰いでいる。

この先に何があるのか判らない。けれど、あの背中を見失わなければ。

何とかなりそうな気がしてきた。


「あれが片瀬の城だ」

時隆が指したのは、向こうに見える丘だった。麓には、茶色の町並みが広がっている。片瀬国の中心地らしい。

雨は少しずつ勢いを増し、私たちを濡らしていた。気温も体温も下がり、俯きがちになっていく私を、正親が馬を寄せて励ます。

「もう少しで御座いますよ」

切長の目を細め、にこりと笑いかけてくる。

やがて民家が多くなり、道の両側に土壁の塀が連なり始めた。いくつかのブロックを過ぎ、控えめな交差点を渡り、先頭の馬が足を止めた。

それが合図のように、先の門がぎいと開く。そこから、初老の男が顔を出した。

「お帰りなさいませ」

目元に深く皺を刻むように微笑み、時隆に一礼する。

「うむ」

頷き返す時隆に続き、私も門をくぐった。

木の匂いがする、まだ新しい屋敷だった。

開け放たれた戸口から、慌ただしさが伝わってくる。主人の帰りに、ばたばたと人が動いているようだった。

平屋の屋敷の中へ入ると、中年の女性が膝まづき、待ち構えていた。こちらを、にこやかに見上げてくる。うなじでひとつに結った髪に、白いものがちらほらと見える。

「しげだ。わしの乳母で、赤子の頃から世話になっている。口うるさいが頼りになる」

「また悪い口をききなさる」

しげは、めっと時隆を軽く睨んだ。

「しげで御座います。若のお世話を致して居ります」

はきはきと言いながら手をつき、丁寧に頭を下げた。

「あ、初めまして」

慌てて、私も頭を下げた。

「香河山の姫君だ」

時隆が無愛想に言う。はいはい判っておりますとも、としげは私に微笑む。

「お疲れになりましたでしょう。どうぞ、お上がり下さいませ」

そこへ、小柄な少年が桶を手に現れた。水が張られたそれを、重たそうに置いてから、時隆を嬉しそうに見上げる。

「お帰りなさいませ」

ぴょこんと跳ねるように頭を下げるその仕草に、時隆の眼が和らいだ。

「下働をして居る、鷹丸だ」

鷹丸の頭を撫でながら、私に言う。

「まだ幼いが良く気がつく。馬の事なら、此奴に訊くが良いぞ」

歳の離れた弟を自慢する、兄のようだ。時隆のそんな顔を、初めて見る。

私まで親しい気分になり

「よろしくお願いしますね」

微笑んで頭を下げると、鷹丸は怯えたように数歩下がった。

「よ、宜しくお願い申し上げますっ!」

上ずった声を上げ、弾かれたように外へ走り出て行ってしまった。

その背中を見送り、思わず縋るように時隆を振り仰いでしまう。

私、何かやってしまった?

「奈津姫、」

時隆が、笑いを含んだ声で言う。

「下の者には、もそっと上から物を言え。鷹丸は却って固くなってしまったぞ」

「だって」

私は姫じゃないから、と言いかけて口元を引きしめる。

奈津姫でいるなら、それも必要なことなのかも知れない。そう思い、仕方なく

「うん、解った」

素直に頷いて見せた。

しげに勧められるままに足を洗い、屋敷へ上がる。その私を見送りながら、時隆はしげに言った。

「わしは父上の元へ行って参る。姫を頼む」

「畏まりました」

そのしげと私に頷くと、時隆は戸口に立ったままだった志乃介を振り向いた。

「志乃介、共に来てくれ。父に会わせる」

「はい」

志乃介は頷き、ではと私に目礼を送って寄越した。

まずは男だけで殿様にご挨拶、か。

出て行く時隆たちを見送りながら、置いてきぼりにされたようで心細くなる。

そんな私にしげが

「先ずはお湯浴みでも如何でございますか?」

と誘った。

「お湯浴み?」

ということはお風呂?蒸し風呂とは違うのかな?

しげの小さな背中に、さとと着いて行く。

いくつかの渡り廊下を渡り、角を曲がり、やがて屋敷の並びから突き出たような場所へ出た。

「此方が湯殿で御座います」

竹で編まれた衝立の、向こうへ回る。

「わ、すごい…っ」

私は声を上げた。

奥に木で組まれた大きな湯船が置かれている。外から引き込まれた竹筒から、湯気が盛大に立ち上がっている。竹筒は湯を運び、湯殿を一杯に満たしている。そこからあふれ出た湯は、薄い褐色をしている。

「これは?」

訊ねると、しげは得意そうに小鼻を膨らませて答えた。

「お城の裏山で湯が湧くのです。其処から引いております」

「温泉…!」

「はい」

私は至福のため息をついた。

「よう御座いましたね!」

さとが声を弾ませ、しげを向く。

「姫さまは湯に浸かりたいと、ずっと仰せでしたので」

「まあ其れは良かったこと!このお屋敷では、何時でもお好きな時にお湯浴みして頂け

ますよ。どうぞ、ご遠慮なく」

しげはにこにこと笑いながら

「ゆるりとなさいませ」

と衝立の向こうへ消えた。

さとも後に続き

「あちらで、お待ちして居りますね」

と出て行く。

二人の心配りに感謝しながら、遠慮なく、お湯を頂くことにした。

入院中も、シャワーを浴びるしか出来なかった。久しぶりのお風呂だ。それも温泉、源泉掛け流しってやつだ。

「ああ…っ」

湯船に浸かり、体を伸ばす。思わず声が出る。

強張った体がほぐれてゆく。指の先まで、血が巡り出す。

「生きてるなあ、私…」

視線を上げると、連窓の向こう、軒越しににぶい紫色の空が見えた。今日が暮れてゆこうとしていた。

この時代に来てから、今日で三日。

もう三日、けれどまだ三日しか経っていないのか、とも思う。一日がとてもゆっくりで濃いのだ。

ここでの暮らしに、意外と抵抗のない私がいる。

髪はまだ洗えないけれど、こうしてお湯に浸かれる。トイレもそれほど酷くない。地方でたまに出会う公衆便所の、いわゆるぼっとんお便所レベルだ。

重たい着物も、少しちくちくする藁草履も、これはこれでいい。段々と体に馴染んできている。

パンツがないのはまだ慣れないけど、まあそれもその内平気になるのかな。

こうして、時隆に守られ、みんなに助けられながら。

「生きているなあ…

 生きて行けるんだなあ…」

呟きは、褐色のお湯の中にぽとりと落ちて消えた。

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