片瀬 1

翌朝、私たちは千草城を発った。

夜遅くまでお酒を飲んでいた、なんてことを考慮してはもらえなかった。

さとに起こされたのは、まだ日が明け切らない内だった。

がんがんと痛む頭を押さえながら、朝食を済ませた。と言っても、お粥とお味噌汁くらいしか、食べられなかったけれど。

「此れ程になるまでお酒を召されるなんて」

小言を重ねながら、さとは細々と世話を焼いてくれる。

冷たい井戸水で手拭いを絞り、首の後ろに当てる。熱い湯を淹れ、大きな梅干しと一緒に差し出す。

「だいぶ良くなったわ、ありがとう」

ふーっと息をついた私に、さとがさり気なく訊ねてきた。

「昨夜は、如何様なお話だったのです?」

「大したことは話していないよ」

お湯を啜りながら、私は答える。

なんて事のないお湯なのに、どこか甘くて美味しい。

「香河山から来たおサムライと会って、話をしただけ」

「侍?」

「うん、北谷志乃介」

ああとさとは頷いた。

「北谷様の御子息ですね」

「ああそうか、志乃介のお父様は姫のお側役だったんだものね。さとも知っている人だよね」

はいと、さとがもう一度頷く。

「姫様がお生まれになった頃から、お守り役をされていたそうで御座います。常に穏やかで、お優しいお方でした」

「そう…」

私は大きな湯呑を両手で包み込んだ。

肌寒い朝だった。湯の温もりが、冷たい指先を温めてゆく。

「さて。そろそろ支度をしようかな」

呟いて、私は立ち上がった。


乗馬用だという袴に着替え、足には草鞋を履かされた。足首でしっかりと結び付けるそれは、病院から拝借したサンダルより心地良い。袴も、足首できゅっと締まるデザインで動きやすい。

鳶職の人が着るズボンみたい。

思って、一人でくすりと笑った。

千草城の庭には、時隆に供回り達、そして志乃介が顔を揃えていた。

「お早う御座います」」

正親が真っ先に声を掛けてくる。

「お早うございます」

答えると、眩しそうに目を細めている。

傍に行き

「頭が痛くて仕方ないんだけど、あなたは大丈夫?」

小声で訊いたら

「私も同じで御座いますよ」

と、端正な顔をしかめた。その横で志乃介が、私もですと頷く。

そこへ、仏頂面の亀忠がやって来た。

表情は冴えないものの、今朝も袴をびしっと履き、結った髪には一筋の乱れもない。

「お早うございまーす」

わざと軽い口調で言い、手を振って見せたが見事に無視をされた。

「姫様、此方へ」

淡々と手招きをする。

言われるままについて行くと、庭の隅に、芦毛の馬が一頭、佇んでいた。

「可愛い…!」

驚かさないように、そっとゆっくり、手を差し伸べる。

馬は、鼻先に出された私の手の匂いを嗅ぎ、ふるるると大きく息を吐いた。

「姫様の馬で御座います」

亀忠が慇懃に言う。

「え、私の?」

その四角い顔を振り向くと、亀忠はつまらなそうに言った。

「姫様は馬に慣れておいでの御様子だとか。若に、良さそうな馬を見繕っておく様言われましたので、此れを」

と、顎で馬を指す。

「まだ若い牡馬で御座います。姫様に献上致します。可愛がってやって下さい」

抑揚のない声でそう言うと

「頭が痛くてかないませぬ」

ぶつぶつと言い、向こうへ行ってしまった。

「あ、ありがとう」

慌てて、遠ざかる背中に声をかけた。

「綺麗な馬で御座いますね」

後ろからついて来ていた、さとが言う。

うんと頷き、私は馬の鼻筋をそっと撫でた。馬は、長い睫毛をくるんとさせて、私を見上げている。

慣れているわけではない。乗馬経験もない。けれど、この美しい動物が私は好きだった。

「嬉しいなぁ…」

仲良くしてねと心の中で話しかけた時

「名は何とする?」

背後で時隆の声がした。

振り向くと、爽やかな笑顔で立っている。

寝足りた顔をしているなあ。

思わずにやにやとする私に、何だ?と時隆は首を傾げた。ううん何でもない、と首を振ってから

「ありがとう、この子」

とお礼を言った。

うむと頷きながら馬に寄り、その鬣を時隆は撫でた。

「片瀬は、良き馬を育てる国でも在る。中でも、此れは良い馬だな」

満足げに言い、私を見る。

「大切にしてやってくれ」

にこりと笑う時隆は、昨夜のことを覚えていない様だった。


私たちは、千草城を発った。

亀忠が、城外へ出てまで見送ってくれた。

「次に千早へ参る時は、片瀬の大軍を連れての事に為ろう。頼むぞ、亀」

それが亀忠に向けた、時隆の暫しの別れの挨拶だった。

自国内の移動のせいか、馬と人の隊列はのんびりと進んで行く。

辺りには田園風景が広がっている。時折、牛を引いて動く人影が見える。田畑を耕しているのだろうか。

遠くに低く連なっていた丘陵は、いつしか途切れた。真っ直ぐで平らな道が、飽きるほど続いている。

時隆がくれた馬は、良い子だった。人を乗せるということを、きちんと理解しているようだ。誰かが相当に訓練し、教え込んだのかも知れない。

馬のリズムに合わせ、体を柔らかくする。ただそれだけで、私も、そしてたぶんこの馬も、気持ち良く前へ進んでいた。

空は相変わらずの鉛色だ。重たく雲が蓋をしている。雨は降りそうにない。

その厚い雲を抜け、心細げな陽射しが頭上から降りて来る頃、時隆は隊列に停止を命じた。

「奈津姫、此方だ」

声に振り向くと、颯から降りた時隆が手招きをしている。道を外れ、背の高い草の向こうへと歩き出す。

近寄って来た正親に馬を預け、私はその背中を追った。

気を使ったのか、さとや皆はその場に残るようだ。

濃い緑の匂いをかき分けて行くと、先には小さな川が流れていた。

時隆が川べりにしゃがみ、手拭いを流れに浸している。引き上げ、ぎゅっと絞り、それを私に差し出した。

「ありがとう」

素直に受け取って、顔や腕を拭く。

「気持ちいい」

ふーっと、ひとつ息をつく。

さやさやと、川からの風が吹いてくる。

時隆は私の手から手拭いを取り、また流れに浸し、引き上げ、ぎゅっと絞った。日に焼けた顔を拭い、同じようにふーっと吐息をつく。

「奈々子」

辺りには誰も居ない。手拭いを首の後ろにやりながら、時隆が私の名を呼んだ。

「夕暮れには片瀬の城へ着く」

ええと頷く私に、時隆は次の言葉を少しだけためらった。

「明日、父と引き合わせる」

私は、時隆の隣にしゃがんだ。

澄んだ川底に、指先ほどの小魚がついっと泳いで行くのが見えた。

「香河山への援軍を、お願いするんだよね」

時隆が、ああと答えた。手にした手拭いを、また流れに浸す。

「戦が好きな者など居らぬ」

ゆらゆらと流れに任せる手拭いに、眼を落としたままで言う。

「だが、戦わねば守れぬ物が有る。戦ってでも、手に入れたい物が有る」

「それは解る、解る気はする。だけど」

迷った後で、思い切って言う。

「人が殺し合うのは、間違っていると思う」

時隆は何も言わなかった。

怒らせたかな。

不安になる。小川の流れる音が、やけに耳につく。

「奈々の国に、戦は無いのか?」

ぽつりと時隆が言った。

「ある」

私はそう答えた。

「神の教えや正義を振りかざして、戦争をしたがる人たちは、たくさん居るよ」

「幾世も後の国でも、左様なのか」

ただ頷いた。

「わしは、戦の無い国を作りたい。わしの大切な者達が、安堵して暮らせる世にしたい。そう願って来た」

流れを見下ろしたままの時隆の横顔を、私は見つめた。思いのほか長い睫毛が、目元に影を作っている。

「羽沢家は元来、片瀬に在る多くの豪族の一つで在ったのだ」

私の視線に気づき、時隆が顔を上げた。

「将軍家は、この東国を纏める力を失くしてしまった。豪族は、己で身を守らなければ成らなくなった。己を強くし守る為と称し、各地で争いが起きた。一つが隣を攻め己の物とすれば、また一つ、同じ様な争いが別で起きた。強い者が弱い者を討ち、弱い者は更に弱い者を攻める。それが此の東国で在ったのだ」

私に薄く笑いかけ、時隆はまた眼を落とす。

「その中で頭角を現したのが、羽沢で在った。我が父は戦いに戦った。周囲の主だった豪族を討ち、其れらを纏め上げた。そうして、今の片瀬国が在る」

「時隆も、一緒に戦ったの?」

左様だと時隆は頷いた。

「多くの者を斬った。幾つもの城を焼いた。だが、わしに悔いは無い」

時隆が、手拭いを引き上げた。大きな手で、それをぎゅっと絞る。

「豪族が争いを繰り返していた時分より、今が良い。そう誇れる国に成った故だ」

固く絞られた手拭いを手にし、話し続ける。

「奈々。争いの有る地は、力でしか平らかに成らぬ。向けられた刃は、己の手で払い退けねば成らぬ。其れが戦ならば、わしは喜んで行く。其処に大事な者が居るなら、尚更だ」

私は言葉を失っていた。

人殺しはいけない。戦争は誤ちでしかない。

そう信じて来た。

なのに、戦は嫌だとしか言えない自分が、幼稚に思えてくる。

「例え片瀬が兵を出さずとも、香河山は七生と戦に為る。香河山のみで勝ち目は無い。見捨てる訳には行かぬ」

それでも、言わずにいられない想いが、私にはあった。

「でも…嫌だ」

「奈々子、解ってくれ」

こちらへ向き直る時隆を、真っ直ぐに見つめて言う。言ってしまう。

「時隆を戦争へ行かせるのは、嫌だ」

それも、私の名の元で。

いや、奈津姫の名の元、なんだけど。

それでも。

「…左様か」

ふっと時隆が笑う。

仕方のない奴だな、とでも言うように。

そして、その笑いを悪戯っ子のような表情に変えて言った。

「わしに惚れたか?」

「ばっ」

私は、勢いをつけて立ち上がった。

「ばっかじゃないの!」

はははと笑い声を上げる時隆に背を向け、大股で歩き出す。

「援軍でも何でも、お父様にお願いしてあげるわ。張り切って戦って来れば?」

ずんずん歩く私の背中へ、時隆は呑気な声を掛けてきた。

「頼んだぞ、姫」

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