千草 9
「奈々」
時隆の大きな手が、私の頭を引き寄せた。
こつり。
時隆の鎖骨に額がぶつかり、私は目を閉じた。もう一方の手が、背中をとんとんと優しく叩き出す。宥めるようなそのリズムに、感情が収まってゆく。
「奈々」
はい、と私は目を閉じたままで答えた。
「其れでも、そなたには奈津姫になって貰わねばならぬ。其れが香河山と片瀬のため、そしてそなたの為でも有る」
「…私のため?」
「左様だ。そなたは香河山の、神守家の為に此処へ呼ばれた。この上は神守の姫として、香河山で生きる外はない。成ればこそ、かの国を滅ぼす訳には行かぬ」
「私が、香河山のために?」
「左様だ」
「神守家のために?」
「ああ」
「奈津姫の代わりに?」
時隆が、ひとつ息をついた。
「左様だ、奈々。血を絶やさぬ為神守家に連なるそなたを、神が此処へ連れて参った。そういった事の様だ」
「嘘よ」
私は身を起こし、時隆の顔を見据えた。
「私はこの時代の人間じゃない。生まれ育った家も、国も、ちゃんと他にあるの。神様だか何だか知らないけど、勝手に連れて来られて、姫の身代わりになれなんて、そんなのめちゃくちゃだわ。私は帰りたいの、帰る方法を探したいのよ。戦争なら時隆達で勝手にやればいい。私はごめんだわ、付き合いきれない。これ以上周りに流されたくなんかない!」
一気にまくしたて、時隆に背を向けた。
私を宥めていた優しい手が、宙に浮き、途方に暮れるのにも構わずに。
「やれやれ」
時隆が大きく息を吐く。そして
「それが、本来の奈々の姿なのだな」
と呟いた。
どこか楽しげなその声に、私は横目だけで振り向いた。
「時隆と呼び付けにされたのは、父以外で初めてだ」
私の視線に、からかう様な口調で続ける。
「あっ…ごめんなさい」
勢いに任せて、呼び捨てにしてしまった。
「奈々の国では、女子が男の子を呼び付けにしても、許されるのか?」
「いえ、いや、まあ、」
少し考えてから、時隆に向き直り答える。
「男、女に関係なく、目上の人には敬称をつけます。友達や、年下の人を呼び捨てにすることはあるけれど、それも男、女に区別はないです」
「左様か」
時隆は顎を撫でた。
「さっきのは、ほんと、ごめんなさい」
「いや」
ふふっと時隆が笑う。そして、ふと思いついたように訊ねた。
「奈々は幾つだ?」
「25、ですけど?」
「何と」
時隆が軽く仰け反った。
「わしより三つ、上なのか」
「えっ」
今度は私が、大きく仰け反った。
「と、年下⁈」
え?え⁈!と驚き続ける私を、可笑しそうに見ながら時隆は言う。
「左様だな、わしは二十二になる」
この時代の年齢は数えのはず。と言うことは、実際は21歳?
「に、にじゅういっさい⁉︎」
どう見ても30手前なんだけど…?
まじまじとその顔を見つめる。
「奈々の国であれば、わしが呼び付けにされても誤ちではないのだな、成程」
小さく頷いてから、だがと続けた。
「わしの供回りや、亀の前では呼ぶで無いぞ。そなたが軽んじられる」
「はい」
そういうものか、と素直に答えた後で訊ねる。
「あの、もしかして、あの亀忠さんも…?」
「ああ、わしと同じ歳だ」
「マジすか…」
がくりと項垂れる私に
「まじとは何だ?」
時隆が不思議そうに首を傾げた。
時隆には、人前では様を付ける。亀忠や供回り達は、何々殿と呼べばいい。香河山の武将は奈津姫の直接の家臣であるから、呼び捨てで構わない。
そんな細々とした注意を受けてから、私は時隆に伴われ広間へ向かった。
会わせたい男が居る、と言う。
別室で控えていたさとが、気配を察し出てきた。それを時隆が制する。
「そちは控えて居れ。大事な話だ。内々で済ませたい」
さとの白い顔が強張る。主人の私から引き離される口惜しさなのか、そこに、僅かな怒りの色が見て取れた。
「でも、」
さとだって内々の一人でしょうと言い掛けた私を、時隆が視線で黙らせる。仕方なく
「さと、ここで待っていて」
笑顔で頷いて見せてから、私は時隆の後に続いた。
廊下の途中で、時隆が足を止めて振り向く。
「奈々」
はいと見上げると、済まぬが、と言いにくそうに口を開いた。
「皆の前では、そなたを奈津姫と呼ぶ。良いか?」
「仕方ないよね」
私は小さく息をついた。
「ここでは、私が奈津姫なんだものね」
納得した訳ではない。けれども今はそうするしかないだろう。この時代に上守奈々子の居場所はないのだ。
「左様だ。そして、そなたが奈津姫で有る事が、そなたを守る事にも成る。心してくれ」
「…それはどういう意味?」
「そなたが本当の奈津姫でないと知れれば、新たな敵を生むやも知れぬ、という事だ」
「敵って…」
「わしにも未だ判らぬ事が多過ぎる。故に、わしが信ずる者をそなたの傍に置く。しかし、その者らにもそなたの素性は明かせぬ。済まぬが暫くは奈津で居てくれ」
そう言うと、くるりと背を向ける。
「だが、わしはそなたを奈々子だと知って居る。二人きりの時は奈々と呼ぶ。それで堪えてくれ」
この人は。
歩き出す時隆の背中を、見つめながら思う。
この人は、なぜ、こんなにも。
そこまで思い、いやいやと頭を振った。
それでも、戦争に加担はできない。時隆に心を傾けたら、きっとまた流されてしまう。誰かを傷つけてしまう。
しっかりしろ、奈々子。
時隆の優しさを振り切るように、ぐっと奥歯を噛み締めた。そうしてから、時隆の後を歩き出した。
広間には、亀忠ともう一人、小柄で若いサムライが待っていた。
時隆の後から部屋へ入る私を、乗り出すようにして見上げてくる。その大きな瞳は潤んでいる。
「…姫様っ!」
小さく叫ぶように、呼びかけてくる。
戸惑う私に、とりあえず座れと時隆が促す。はいと、私は横に座った。
「此れは香河山の武将、北谷志乃介殿だ。父君は、そなたの御側役を務めて居られた」
「おそばやく?」
小声で聞き返す私に
「身の回りを見る役どころだ」
時隆も囁き声で教えてくれる。
「それでは…」
昨夜もお城に居たのでは…
言葉を失う私に、志乃介が両手をつき、低い声で言った。
「はい、父は昨夜、城中にて殉死致しました。ですが、姫様、」
顔を上げた志乃介の目が、見る見る赤く充血してゆく。
「よくぞ、よくぞ、御無事で、居て下さいました!」
私は思わず目を伏せた。
ああ、この人は、奈津姫をとても大事に思っていたんだ。
そう解ってしまったから。
「某は、国境の警護に当たって居りました。それ故、お城の大事を知ったは後になってしまい、」
志乃介は、濃い眉をぎゅっと寄せ、両の拳を膝の上で固く握った。
「馳せ参じた時は既に、お城は燃え落ちた後で御座いました」
二重の大きな目を瞑り、志乃介は唇を噛んだ。
「そう…」
「父を始め、御重臣方も皆凶刃に倒れ、城と共に焼かれました。残ったのは、富士田様以下、我ら歳若い者ばかり。途方に暮れていた次第で御座います。が、」
志乃介はかっと目を開き、私へ膝を進めた。
「本日、時隆様が来られ、姫様の御無事を伝えて下さいました。この志乃介、先ずはお目に掛からねばと、無理を申して連れて来て頂きました。本に良かった、御無事で良かった」
下瞼の縁に盛り上がった涙が、ころんとあふれた。志乃介はそれを隠そうともせず、私を見つめ続けている。
何か言わなければと思った。
志乃介にとって奈津姫は、いや目の前に居る私は、ただ一人生き残った主なのだ。しかも、亡き父が仕えた姫君。
失ったと思っていたその姫が、無事でここに居る。
それは、希望だ。明日への道しるべだ。
それが、私なのだ。
「あの…」
言い淀む私を、時隆がのんびりと遮った。
「腹が減ったな」
言うと、私ににこりと笑いかける。
「姫も夕餉がまだであろう?」
ええと頷くと
「皆で飯でも食いながら、ゆるりと話そうか」
亀忠が左様ですなと呟き、腰を上げた。戸を開け、向こうへ声を掛ける。
「おい、夕餉と酒を運べ」
はーいと、若い男性の軽やかな声が答えた。
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