千草 8

その後も特にやることのない私は、出された昼食を食べ、お風呂に入れてもらった。

お風呂と言っても湯船はない。焼いた石に水を掛け、その蒸気にあたる蒸し風呂だった。

浴衣のような薄い着物を着て、狭い板張りの部屋に入る。床はスノコのようになっていて、その下に熱い石が敷かれている。そこへ大量に水を撒き、もうもうと湧く蒸気の中で汗を流す。

サウナみたいなものだ。

暑さをしばらくこらえた後で、全身を手拭いで拭う。

本当はシャワーで体を流したい。髪も洗いたい。ミントの歯磨き粉で歯を磨きたい。

そうは思うけれど、これはこれでさっぱりとした。

「お湯には浸かれないの?」

冷たい井戸水を飲みながら、さとに訊いたら

「湯屋で御座いますか?」

と、首を傾げる。

詳しく聞けば、この時代の風呂は蒸し風呂が主流のようだった。湯船に湯を張ることもあるにはあるけれど、それは別に湯屋と言うらしい。ちょっと贅沢なもののようだ。

髪を洗うのも特別なことみたいで

「お天道様がお顔を出されている日が、宜しいかと」

と、やんわり止められてしまった。

確かにドライヤーがない。濡れた髪でいて、風邪をひいたら大変だ。薬も医者も心許ないこの時代では、命に関わる大病になってしまう。

中庭に面した廊下に座り、足をぶらぶらさせながら、私は私が居た時代を思う。

家では、スイッチひとつで40度のお湯が出た。ハンディシャワーで、毎朝髪が洗えた。ピンクの洗面台が懐かしい。

私は首を後ろに逸らし、視線を、高く高くへ向けた。

細かな雨が落ちてくる空は、厚い雲で覆われている。

「太陽が出ていなければ髪が洗えない、か」

呟いてみる。

陽が射さなければ、時間の見当すらつかない。昼食から、一体どれくらいの時間が過ぎたのだろう。こんなことをしていていいのだろうか。

不意に焦燥感が込み上げ、私はお腹の底からため息をついた。

神守家の姫、奈津。

そして私、上守奈々子。

私は、神守家に繋がる家に生まれたのかも知れない。

魂は、生まれ変わる先に子孫を選ぶと聞いたことがある。どうせ生まれ変わるのならば、赤の他人より血の繋がりのある子や、孫の元へ。

それは、何だか安心感がある。私だって、きっとそうする。

ならば私は、奈津姫の生まれ変わりなのかも知れない。

姫が自ら命を断ち、生まれ変わり、転生を繰り返した先が私。御越し山の神が願いを聞き入れ、呼び戻した魂が私であり、姫でもあったのではないだろうか。

生まれ変わる魂は、同じ罪を繰り返すとも聞いた。

道ならぬ恋に罪を犯し、死を選んだ私は奈津姫と似ている。そして姫は死に、私は死に損なった。死に切れず彷徨う魂なら、神様も過去に連れて来やすかったかも知れない。

でも、だからどうなる?どうすれば元に戻れる?いや、そもそも戻れるのだろうか?

もしかして、上守奈々子は、もう死んでしまったのではないだろうか。私が帰る場所なんて、もうないのでは?

そこまで考えたところで、自嘲気味な笑いが浮かんだ。

仮に戻れたところでどうなる。仕事も、暖かな家もない。どうせまた、死に場所を探して彷徨うだけだ。

それでも、私は戻りたいの?

生きる意味を、場所を失ったから。死ぬしかないと自分を追い詰めたから。

私はここへ来てしまったんじゃないの?

「自業自得だよねぇ」

あーあとわざと声をあげ、廊下に寝転がった。

その私の視界の隅に、正座し、静かに控えているさとが見えた。

「あ」

慌てて身を起こした時、屋敷の向こうからざわめきが聞こえた。

「時隆様がお帰りのご様子ですね」

さとが、にこりと笑って言う。

いつの間にか、空には薄い橙色が滲み始めていた。夕暮れだ。

出迎えるべきなのか迷っていると、さとが察して

「ご様子を見て参ります」

と、身軽に立ち上がった。そのまま、小さな歩幅で歩き去る。

部屋に入って待っていると、程なくしてさとが戻って来た。

「香河山から、また何方かをお連れになったご様子です」

綺麗な仕草で正座をし、背筋を伸ばして言う。

「市ヶ谷様方とお話ししておいでです。このままお待ちになった方が、宜しいかと」

そうと答え、あとはぼんやりと待っていた。

どうしたら帰れる?いや、帰ることに意味があるのだろうか?と、繰り返し自分に問いかけながら。


どれくらいの時間が過ぎたのだろう。

部屋には小さな火が灯され、外では細かな雨が降り続いている。

「入るぞ」

低く柔らかな声と共に、部屋の戸が開いた。

振り返った視線の先に、時隆が立っていた。

「お帰りなさい」

小さく言うと、ああと目元を緩ませた。

そしてさとに

「二人きりで話がしたい。暫し外せ」

と声をかけ、胡座をかいて座った。

さとが出て行き、戸が閉まる。

時隆が、言葉のきっかけを探すように私を見る。

「香河山へ、行っていたんですか?」

沈黙に耐えられず、私から口を開いた。

うむと頷き、時隆が腕を組む。ふーっとひとつ息をつくと

「明日、片瀬の本城へ戻る。そなたに、父と会って貰う」

と言った。

「お父さま?」

片瀬の国の王様、か。

「お会いして、どうするんですか?」

「香河山の姫として、援軍を求めて貰いたいのだ」

時隆は、言葉を選びながら話し出した。

「香河山と七生は、国境で睨み合っている。今は戦になって居らぬ。だが、七生は兵を集めている。備えが出来次第、香河山へ攻め入る腹積もりであろう」

「香河山を自分たちのものにするため?」

「左様だ」

時隆が頷いた。

「七生を治める大丸家には、男の子が二人居る。現国主の継延は、嫡子の清延に後を継がせると決めている。だが其れとは別に、二男の清重を事の他愛でて居ると聞く。その二男のため、自領を広げたいのだ」

「二男に国を与えるため?」

「左様だ」

なるほど、そのための縁組でもあったのか。

「だが何よりも、清重が奈津を気に入って居る。是が非でも妻にしたいと、今も駄々を捏ねて居る様だ」

「でも、」

ああと、時隆は私に頷く。

「奈津はもう居らぬ。しかし、そなたが居る。七生は奈津を、即ちそなたを、渡せと申して来て居る」

「それが戦の理由になるの?」

「なる様だ」

女一人を手に入れられないからって、国ごと奪おうと言うのか。

そんな私の苛立ちを感じ取ったように、時隆が付け加える。

「奈津を妻とすれば、香河山の国主とも成る。古より続く、由緒正しき国を手に入れるのだ。その意味合いは大きい」

「そうでしょうけど…私は、どうなるんですか?」

「渡す訳にはいかぬ、当然だ」

時隆は間を置かず、きっぱりと言った。

「国主を斬った仇に、忘れ形見で在る姫を渡せる訳がない」

それはそうだ。

「香河山にすれば、そなたは神守家を継ぐ唯一の姫だ。生き残った家臣達は、そなたを旗印に戦い、国を建て直すと決めた。其れが叶わなければ、香河山は此のまま滅びる外は無い。片瀬とて同じだ」

時隆の眼に力がこもる。

「香河山を七生に獲られれば、片瀬も危うい。七生を叩かなくては、今後が立ち行かぬ。共に戦い、共に此の東国を治める。国に安寧をもたらすには、其れしか無い」

「でも、私は奈津姫じゃありません」

「解って居る」

「私には、無理です」

声が上ずった。

ただ流されて生きて来た私にも、解る。これはまずい。ここで抗わなければ、大変なことになる。

「香河山の人たちの考えは解ります。生まれ育った国を、しかも仇に乗っ取られるなんて、すごく口惜しいでしょう。戦ってでも国を守りたいと思うのは、当然だと思います。けれど、」

私は、こくりと唾を飲み込んだ。

「私の名の元に、殺し合いが始まるなんて」

本当は、私じゃなく奈津姫なんだけれど。

「耐えられない」

握りしめた両の手が、血の気を失っていく。白く、青く。

「沢山の人が死にますよね?それで、その人を愛する人が悲しみますよね?香河山だけじゃない、七生でだって、そう。私は、」

私の両手に、時隆の眼差しが向けられた。

「もう、誰も傷つけたくない。憎まれたくない。誰かの幸せを壊すのは、もう、嫌」

「奈々子、」

時隆が身を乗り出すように、膝を進めた。手を伸ばし、私の両手を上から包む。

「泣くな」

「泣いていません」

嘘だった。

涙は流れていなくても、心が泣き叫んでいた。傷つけたくなかった、壊したくなかった、と。

不倫相手の娘の、幼い面影が浮かぶ。

担任として、私はあの子を大切に思っていた。幸せを願う気持ちに、偽りはなかった。

なのに、私は流されるままに恋をした。彼の欲望に応え、体を任せ、溺れた。

心から恋焦がれ、狂おしいほどに求めた人なら、まだ救われたのかも知れない。どんな罰でも、憎しみでも受け止める。そう強くなれたのかも知れない。

けれど、違ったから。

なぜ踏みとどまらなかった?

私は、私を責めた。許せなかった。

だから、殺したかった。

自分を。上守奈々子という、愚かな女を。

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