千草 7

「姫さま」

さとの遠慮がちな声で目が覚めた。

反射的に飛び起きる。そして、ああと思わず声がもれた。

畳敷きの素っ気ない部屋。十畳ほどのこの部屋に案内されたのは、空が白み始める頃だった。

箱枕と言うらしい。台形の箱に、俵型の枕がちょこんと乗っているような物に、頭を乗せて横になった。けれど、これがとにかく寝にくい。体はぐったりと疲れているのに、眠れない。

恨めしい気持ちで目を瞑り、右を向いたり、左を向いたり。薄く固い布団の中で、身の置き場所を探した。

そこへ、さとが灯りを消しに来て

「首の下に当てた方が、宜しゅう御座いますよ」

と教えてくれた。

この言葉がなければ、うんうんと唸り続けるだけだったろう。

重たい眠りがようやくやって来て、そして今。

はーっと息を吐き、あちこちを伸ばす。

背中が痛い。病院のマットレスに慣れた体が、この布団では休まらないと訴えている。

のろのろと辺りを見回し、やっぱり夢じゃなかった、私は遠い過去に来てしまったんだと噛み締める。

戸が開き、さとが顔を覗かせた。

「お目覚めで御座いますか」

訊ねられ、うんと頷いて布団から抜け出した。

続き間の狭い板敷きの部屋で、さとは休んだ。

一緒にこちらで寝ようと誘ったけれど、恐れ多いことですと断られてしまった。

姫と侍女とは、そういうものであるらしい。

「失礼いたします」

言われるままに着替えた、白く薄い着物の帯を解いてくれる。

病院のピンクの寝衣は

「汚れてましたので、洗って干しております。代わりに此方を借りて参りました」

と、綺麗な水色の着物を差し出す。

私が寝ている間に、さとはいくつもの仕事を終えたらしい。

小袖と呼ばれるシンプルな着物に、腰の低めの位置でオレンジの帯をきゅっと締める。

「長雨の季節で御座いますから、晴れたお空を思わせるこの色を選びました」

さとがにこりと笑う。

「じゃあこの帯は太陽ね」

私も笑顔を向けた。

「太陽?」

さとが不思議そうな顔をする。そうかと、ひとつ息をつき言い直す。

「お日様のことよ」

「お天道様で御座いますね」

やっと解ってもらえた。


水を張った盥が運ばれて来た。

開けられた戸の向こうには、中庭が見える。今朝は細かい雨が降っているようだ。

厚く雲で覆われた灰色の空は、それでも明るい。肌にまとわりつく湿気も、どことなく清潔感がある。

「空気が綺麗なんだろうなあ」

「何か、仰いましたか?」

思わずこぼれた独り言に、さとが首を傾げた。

ううんと首を振り、見守られながら顔を洗う。盥にに張られた水はきりりと冷えていて、心地良かった。

さっぱりとしたところに、朝食が届いた。

大きな茶碗にご飯。黄色がかった色からすると、どうやら玄米らしい。その脇に、出汁のいい香りがするみそ汁。焼き魚は鯵だろうか、見覚えのある小ぶりの魚。牛蒡の煮物、そして梅干し。

豊かなメニューだった。

「すごい」

言ったとたんに、空腹であることに気づく。

「お国とは違いますね」

さとも、遠慮がちに覗き込む。

「香河山はもっと質素なの?」

訊いてから、しまったと思う。けれど、さとは寂しそうに

「やはりお忘れなのですね」

と薄く笑うだけだった。

「昨夜の出来事が余りにお辛くて、何も覚えて居られない様だと、そう伺いました。時隆様から」

そう。私は頷いた。

「香河山は山に囲まれた国で御座いますゆえ、海の物は、余り手に入りませぬ。時たまお魚が出ると、姫さまは大層喜ばれておいででした」

話しながら、お膳の前に丸い敷物を置いてくれる。

藁で編まれたようなそれを、円座と呼ぶそうだ。座布団代わりに使えと言うことらしい。

「片瀬は豊かな国なのね」

勧められるままに座り、頂きますと手を合わせる。

「あなたは?」

訊ねると、さとといつもの様にお呼び下さいと言った後で、

「わたくしは、後ほどあちらで頂きます」

と首を振った。

「一人で食べるのは寂しいな。一緒に食べようよ」

と誘っても、いいえと首を振り続ける。

諦めて、木の箸を取り上げた。

そこでふと思い出し

「そう言えば、あの人は?」

と口に出してから、ええっと、と迷う。

時隆を、何と呼べばいいのだろう?

羽沢さん、は何だか時代にそぐわない気がする。時隆さん?時隆さま?それとも、亀忠のように若?

小首を傾げるさとを見つめたまま、唐突にその疑問は浮かんだ。

私って何だろう?

職場では、上下そして先輩後輩の関係がはっきりしていた。上司なら、役職で呼べば良かった。先輩なら、さん付けで敬語。後輩なら呼び捨てでも構わない、学生のような話し言葉でも許される。

それは、私が職歴5年目の幼稚園教諭だったからだ。

けれど、ここでの私は何者なのだろう。

さとは、私を香河山の姫として扱う。私が何を望んでいるのかを、こうしている今も気にしてくれている。

亀忠は、時隆の客人に対する礼儀を守ろうとしてくれている。皮肉っぽくはあるけれど。

でも、それは上守奈々子としてじゃない。香河山の姫君の名を借りた私、に対してだ。

本当は、奈津姫じゃない私は?一体、何者として皆に向き合えばいいのだろう?

私は、次の言葉を見失っていた。

唯一、姫ではないと知っている時隆でさえ、その名を上手く呼べない。話しかける時だって、敬語がいいのか、いわゆるタメ口で許されるのかも判らない。

それは、属していた場所から放り出され、ただの個人として生きる危うさ、そのものだ。私はこういう者ですと言えるものを持たない、心許なさだ。

「えーっと…」

「時隆様、で御座いますか?」

さとが、ためらいがちに訊ねた。

「あ、うん、そう」

救われた思いで頷く私に、さとがまた、寂しそうに笑う。

「香河山へおいでと聞きました」

「香河山に?」

はいと頷きながら、温かなうちにお召し上がり下さいと促す。

素直にみそ汁を啜り、美味しいと呟く私に、さとが続ける。

「富士田様と共に、香河山の本陣に向かわれたご様子です。あちらの状況を、見に行かれたのではないでしょうか」

「そう」

さとの柔らかな眼差しに見守られながら、私は食事を済ませた。

その合間に、いくつかの知りたかったことをさとに訊いた。

「昨夜は」

さとは、静かな口調で答えた。

「姫さまからお着物を預かり、わたくしは直ぐにお城を出ました。大変な事が起きるから、早く此処を出なさいと、姫さまは仰いました」

大変なこと、か。

自分が命を断った後の混乱を、奈津姫はどこまで予想していたのだろう。

七生の婿殿がキレて両親を殺し、城に火をつけると判っていたら、大人しく結婚しただろうか。

「着物を御越し山の木に掛けた後は、どうしていたの?」

「真っ暗でとても怖かったので、直ぐにお山を下りました。搦め手の門からお城を窺っておりましたら、表の方角が騒がしくなって、叫び声が聞こえて…」

私は箸を止め、さとを見つめた。

「姫さまが仰った、何か大変なことが起きたのだと思いました。ですが、このままわたくしだけ逃げて良いものかと迷う内に、火の手が上がり、時隆様方が来られて」

ああと私は頷いた。

確かに、時隆達はそちらに馬を待たせていた。

思い返す私を、さとが真っ直ぐに見返して来る。

「時隆様方は、迷わずに御越し山へ上がって行かれました。姫さまをお迎えに来たのだと、わたくしは思いました。そうなのですよね?」

私は目を伏せた。

「さとも、疑っているの?」

え、とさとが小さく声をあげる。

「私と時隆、」

続きに迷ったけれど、さとに倣うことにした。

「様、とが共謀して、婚礼を壊して、こんなことになっちゃったんだって」

さとは少し躊躇った後で、はいと答えた。

「姫さまが、どれ程時隆様を慕われて居らしたか、わたくしは存知ておりますから。それに」

薄く口元を緩めて、さとは続ける。

「姫さまなら、おやりになりましょう。例え、御家に大事を引き起こすとお判りでも」

それ程、激しい女性だったのか。

「もっと、穏やかな姫だと思っていたけど」

さとが首を傾げた。

「普段は穏やかでいらっしゃいますが、とても強いものもお持ちでしたよ、姫さまは」

と言った。

「時隆様への想いはとても、とてもお強いものでいらっしゃいましたよ。ですから、山の神のお力を借り、命懸けで、こんな事をなさったのでは有りませぬか?」

婚礼をぶち壊し、その混乱に乗じて時隆と駆け落ち。

そんな物語が、さとの頭にはあるらしい。

仕方ない。タイムスリップなんて、知りもしないだろうから。

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