千草 5
「…みらい?」
時隆が吐息だけで呟いた。
「みらい、とは?」
「明日の、明後日の、そのずっと先にある時、です」
考え、考え答えた。
「500年とは…代が、何十も、百も、変わる程の時で有るぞ?」
囁くように訊ねてくる。
力強い、鋼のような時隆が途方に暮れていた。困ったように、眉を下げている。
「そうですよね、長い時間ですよね」
私は両手を握りしめた。
「でも、本当のことなんです」
時隆は腕を組み直し、私をじっと見つめた。
「あたしも、あのおっこし山で自殺しようとしていたんです」
「自殺?」
「自害、です」
「何故、自ら命を?」
私は俯き、奥歯を噛み締めた。
どう言えばいいだろう。
私は私に絶望した。生きている価値のない人間だと思った。だから。
だから、自分を殺したかった、と。
どう言えば、伝わるのだろう。
園児の父親との不倫。
その後に残ったものは、ただ罰しかなかった。
彼の妻は、逃げるように家を出た。離婚届が、新築の家のテーブルに置かれていたと聞いた。
「彼女は、全てから目を背けたいんだ」
不倫相手は、薄暗いファミリーレストランで自嘲気味に言った。
「話し合う場を与えてもくれない。ただ別れることしか、彼女の頭にはないんだ」
ぎゅっと握りしめていた左手には、それでも、にぶく光る指輪があった。
二人で抱き合っていても、決して外されなかったもの。
その銀色の光から、私は目を逸らせなかった。
「君はどうするの?」
彼はそう訊いた。
それでも、僕について来る?君にその覚悟はある?
言葉にしないその質問に、私は、答えることが出来なかった。
「園を、辞めようと思ってる」
それだけをやっと答えた。
その他のことを、今は考えられないと。
そう、私もまた彼から逃げたのだ。
勤務先の園では、私への処分を決めかねていた。
幼児教育の場としたら、もちろん、とんでもない大スキャンダルだ。けれど、私を解雇する勇気が、園長にはなかったみたいだ。
私をクビにすれば、問題が表沙汰になる。出来れば、自ら退職を申し出て欲しい。
間に挟まれた副園長は、痛々しいほどに弱く、優しく、私にそう伝えてきた。
「解っています」
そう答えたけれど、私は迷っていた。
もう少し、あと少しだけ。せめて夏休みまで、ここに居たい。
一学期が終わり、長く楽しい休みに入るタイミングでお別れがしたい。それなら子供たちも、担任との別れを受け止めてくれるのではないだろうか。
そう考えていたから。
彼の娘は、当然のように幼稚園を移ると決められた。身を寄せた妻の実家からも、充分に通える距離だったのに。
私は切りの良い所で辞職します、だからお友達と別れさせないで欲しい。
彼の妻に、担任として言葉を尽くした。
けれど、夫の不倫相手に娘を預ける母親がいる訳がない。それは私が辞めても同じだと、彼女は言った。
「あなたが娘の先生だったっていうことが、私を傷つける」
憎しみのままに言われた。
ならば、せめて。
私は、それでも食い下がった。
せめて、お友達とお別れをさせてあげてください、と。
園長に頭を下げ、妻になんども電話をかけた。手紙も書いた。無言の抗議のあと、ようやく
それが許されたのは、梅雨入りが近い頃だった。
私のピアノ伴奏で、お別れの歌を歌った。可愛らしく飾った色紙に、クラス全員でお絵描きをして贈った。最後に、一人一人と握手をして、さよならと言い合った。
まだ幼い少女だ。だから解るはずもないと、見下していた私がいたんだろう。
彼の娘の前に膝をつき、私は言った。幼稚園教論として、当然のように。
「元気でね。新しい幼稚園でも、お友達いっぱい作ってね。先生、いつでも、頑張れって応援してるよ」
そして、右手を差し出した。
「握手」
微笑みかけた私の手を、少女は払い除けた。
「え?」
ぷくりとした白い手の、素早い、けれど強い仕草に私は呆然とした。打たれた自分の手が、熱を帯びた。
「どうして…?」
泣きそうな思いで問いかけた私を、彼女はきっと睨みつけた。
「だいっきらい」
吐き捨てるように、ぶつけるように言い、小さな背中が走り去った。
教室の外で待つ母親へと、真っ直ぐに。
逆光の中、サッシの扉の向こうに立つ、彼の妻の表情は判らなかった。けれど、なぜかその口元が歪んでいるように見えた。
まるで私を嘲笑うように。
「な」
奈津、と呼びかけて、時隆は声を改めた。
「奈々子、如何した?気分がすぐれぬか?」
いいえと私は首を振る。
あの少女の、刺すような眼差しを振り払う。
「辛い思いをしたのだな」
時隆が呟いた時、廊下を走る足音が聞こえた。
ぱたぱたを近づく軽やかな後を、ばたばたと数人が追い駆けて来るようだ。
「待たれよっ」
潜めながらも、厳しく投げかけられる男の声がした。
「亀か?」
時隆が首を傾げてから立ち上がる。先程の市ヶ谷亀忠のようだ。
「何の騒ぎだ」
すっと時隆が開けた扉の向こうから、白い塊が転がり込んで来た。
「何じゃ⁉︎」
珍しく上ずった時隆の声に、私もはっと腰を浮かす。そこへ
「姫さまっ!」
柔らかな体が飛びついて来た。
「な、何っ、誰っ?」
反射的に仰反る私を追いかけるように、ふっくらとした腕が腰に回される。
「姫さまっ姫さまあっ!」
泣き叫ぶ声に被さるように
「これ落ち着けっ」
叫びながら近づく亀忠と
「亀、何者だ、この娘は!」
時隆の怒声で部屋が一杯になる。時隆の手が、置かれていた刀に伸びる。
廊下では、数人のサムライがおろおろとこちらを覗き込んでいる。
「奈津姫様の侍女との事で御座いますが」
苦々しく言いながら、亀忠が私に近づく。
「これ、娘御、落ち着かれよ」
「侍女?」
時隆が刀から手を離した。
「じじょ…?」
私は抱きついたままの少女を見下ろす。
「はい、さとで御座います!」
少女が涙で濡れた顔を上げた。乱れた髪がひと筋、頬に張りついている。
そっと腕を掴み、押しやりながら私はさとを見つめた。
オカメの面。
それが第一印象だった。
白くふっくらした顔。たれ気味の一重の目。丸い鼻と口。泣きながら走って来たのだろうか、頬が赤く染まっている。
十代後半に見えた。
顔の作りはともかく、持つ雰囲気が愛らしい。少女の言葉がぴたりと当てはまる、小太りの素朴な女の子。
「先程、原信賢が連れて戻って参りました。香河山の富士田殿と共に来られたのですが」
渋い顔の亀忠の向こう、部屋の外から太い声がした。
「申し訳御座いませぬ。某と共に待つ様、市ヶ谷殿に言われたのですが、姫様の御無事を如何しても、己が目で確かめたいと申しまして」
その声の主は、大きな体を折り曲げるようにして膝をついた。
「富士田威之に御座います。此度は我が姫を御守り頂き、真に有り難く存知まする」
手をつき、深々と頭を下げた後で射るように時隆を見上げる。
太い眉。二重の丸く大きな眼。垂れ気味の頬、割れた顎に、抜け目のなさを感じさせる。張った小鼻には、自信の表れが見て取れる。壮年の男。
「富士田殿は、御大将・菅山良憲様の後名代として、御挨拶されたいとの由で、共にこちらへ来られまして、」
おっこし山で片平へ行けと命じられていた、若いサムライがおろおろと言う。
「若へお取り次ぎ申す故、お待ち下さいとお願いしたので御座いますが、その」
がっしりとした体に太く短い眉。丸い目に人柄の良さが現れていた。
この信賢という若者が、さとをここまで侵入させた元凶らしい。
「姫さまぁ、姫さまぁ」
私に抱きついたまま泣く少女を、とりあえず宥める。
「あの、私は無事だから。ね、落ち着いて。落ち着いて?」
はい、はい、と頷きながら、ようやくさとが体を離す。ぐずぐずと鼻をすすり上げる。
「これを」
亀忠が苦い顔つきのままで、懐から手拭いを出しさとへ渡す。
「有難う存じます」
さとは小さく頭を下げてから受け取り、顔を拭った。
「もう良い、下がれ」
時隆が、柔らかく信賢に言った。
「疲れたであろう。御苦労であった。先に休めよ」
「はい、有難う御座います」
答えた信賢の声に、安堵が滲んでいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます