千草 3
部屋に静寂が満ちていた。
時隆は腕を組み、目を閉じている。何かを考え込んでいるようだ。
私はもぞもぞと動き、痺れてきた足を何とかしようと試みていた。
「崩して良いぞ」
不意に時隆が言った。顔を上げると笑いをこらえている。まるで子供のような眼をしている。
「…はい」
口惜しい気もするが、ここは素直になることにした。
正座を崩し、足を伸ばす。楽だ。
「何も覚えていないのだな?」
時隆が念を押すように訊いてくる。私は顔を引き締めた。
「覚えていないと言うか、あたし、奈津姫というお姫様ではないです」
私をここまで命懸けで連れて来た、時隆たちに申し訳ない思いがある。それに人違いと判れば、あの亀忠は更に怒るだろう。私なんて放り出されてしまうかも知れない。
それでも、嘘はつけない。
「ごめんなさい」
つい謝ってしまう。
「謝らずともよい」
時隆は笑った。どこか苦さを含んだ笑い。
そして、ふーっと長く息をついてから
「わしも、全てが判っておる訳ではないのだが、」
と言った。
「始まりはこの文だ」
胸元へ手を入れ、細長く折り畳まれた和紙を取り出す。
「そなたが、いや、奈津が早馬で寄越した」
差し出された文を、私は受け取った。
開いていい?
目で尋ねると、ああと時隆が頷く。
何重にも折り畳まれた和紙を、慎重に開く。黄味掛かった紙は、厚みの割りに弱く脆そうだ。
そこには、一目で女性の文字と判る、細く繊細な文字が書かれていた。
「…読めない」
私は呻くように言った。
「文字を知らぬか?」
時隆が気遣うように訊ねる。
「いえ、知っているんですけど…」
答えながら、こんな事なら古文の授業を真面目に受けておくのだったと悔やむ。いや、書道か?
「これは、読めない、です」
達筆な行書体にしか見えないその文字たちに、全くのお手上げ状態だ。
「そなたは、何処から参ったのだ?」
独り言のように時隆が言う。
解ってもらえるだろうか。
どうやら私は、ずっと先の未来から来てしまったようなの。全然違う時代から来たみたいなの。どうしてここに居るのか、どうして奈津姫と間違えられたのか、判らないの。
答えるべきか迷う私の手から、時隆の指が文を取り上げた。
「覚えていない訳ではない、やはり奈津とは別の者なのか…」
奈津姫の文字に目を落とし、呟く。時隆の両の手を、さらさらと文が滑る。
「なれば、何故あの山に居った?奈津の姿形をした、そなたが」
少しの逡巡のあと、時隆は顔を上げた。私を真っ直ぐに見た。
「何れにしても、そなたは知った方が良い。わしの知る事を全て話す」
穏やかに、だがきっぱりと告げて、時隆は足を組み直した。
灯明の火が、ちりりと音を立てた。
時隆様
突然の文をお許し下さい。
いよいよ明日は、わたくしの婚儀で御座います。
どうしても今、貴方様にお伝えしたき事が有り、文をしたためて居ります。
かの日、お別れを申し上げたのは、わたくしの本意では御座いませぬ。
わたくしが何れ程貴方様をお慕いして居るか、誰よりも解って下さると信じるが故に、もうお会いしないと決めたので御座います。
御存じの様に、我が神守家は、御越し山に座す神の血を引く一族で御座います。そして、この血を受け継いで参りましたのは、常に女子で御座いました。
何故か、神守家に男子が生まれませぬ。女腹の家系故、生まれた娘は婿を取り、子を成し、家を保って参りました。
わたくしも又、一人きりの娘で御座います。
家を継ぐ者はわたくししか居らず、国を離れる事は叶いませぬ。
大国である片瀬の、羽沢家を継がれる貴方様の妻になる事など、許されるものでは有りませぬ。
それでもわたくしは、貴方様をお慕いして参りました。添う事は出来ずとも、時の許す限り御傍に居とう御座いました。
お声が、眼差しが、御手の温もりが、今も堪らなく恋しい。今一度限りでも、お会いしたい想いで一杯で御座います。
此の様な心で、夫を迎える事など出来ませぬ。わたくしには、貴方様の他に生きる道が見えませぬ。
わたくしは、今宵、自ら命を絶つ覚悟で御座います。
どうか、お嘆き下さいますな。
御越し山には、言い伝えが御座います。
御越し山の神に願を掛ければ、魂は甦り、新たな生を得るので御座います。
ただ、生まれ変わった魂は、わたくしであってわたくしでは御座いませぬ。
姿形は変わらずとも、その魂は別人の如く変わり果てていると申します。己れの全てを忘れ、赤子の様な心で戻って来ると。
わたくしは神を信じ、今宵、此の胸を突きましょう。
そして、必ず戻って参ります。わたくしであって、わたくしではない魂を抱いて。
愛おしい時隆様、どうか生まれ変わった奈津を見つけて下さいませ。
例えひと時貴方様を判らずとも、奈津は直ぐに想いを取り戻します。お慕いする此の心は、新たな奈津にも、必ず受け継がれるものと信じて居ります。
新たな奈津は、もう二度と御傍を離れませぬ。神守の家を捨て、唯の女子として、貴方様と共に居りまする。
どうか、此の文をお読みになりましたら直ぐに、御越し山へいらして下さりませ。何も判らず赤子の様に怯えているであろう奈津を、見つけて下さいませ。
わたくしの最期の願いで御座います。どうか。
奈津
時隆は、奈津姫からの手紙の内容を聞かせてくれた。言葉を尽くし、絞り出すように。
それは辛いことだったろう。時隆にとって、奈津姫との恋の終わりを、永遠の別れを、語るに過ぎないのだ。
それでもと、時隆の想いが伝わってくる。
奈津姫を取り戻せるのなら、と。
こちらの胸までが、ひりひりと痛むようだった。
けれど、私は奈津姫じゃない。時隆の願いを、裏切ることしか出来ない。
判っていても、私は聞かなければならなかった。今、私がここに居る理由を知るために。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます