千草 1
不倫の相手は、園児の父親だった。
私が担任をしていた、年中さんのクラス。その中に、目を惹かれる可愛い女の子がいた。
年度初めの行事にやって来た母親は、平凡な顔立ちだった。きっと父親に似たのだろうと思った。だから秋の運動会で一目見て、この人がそうと判った。
濃い眉。その下の大きな二重の瞳。通った鼻筋と、薄くきれいな唇。長身ですらりとした体つきも、嫌味じゃない程度に履き崩したジーンズも、好ましかった。
それでも、園児の父親だ。幼稚園教論という、自分の立場は弁えている。
けれど、モテる人なのだろう。私の微かな好意を、彼は見逃さなかった。
園の行事に、母親の代わりに休みを取って来たとき。朝のバスには乗せず、自分の車で娘を送って来たとき。
息苦しいほどに、彼の視線がまとわりつく。
意を決して、その眼差しを受け止めれば、逸らさずに真っ直ぐに見つめ返してくる。
君とどうにかなりたいんだ、と目で訴えられる。
根負けしたのは、私だった。
ある朝、娘を送って来た彼に、小さな紙を渡した。周りに気づかれないよう、細心の注意を払って。
そこに書かれた携帯のアドレスに、直ぐにメッセージが届いた。
週末には、二人きりで食事をした。体の関係を持つまでに、時間はかからなかった。
恋だと思った。私には彼が必要なのだ、だから、と信じていた。
けれど。
年が明け、春が来て年度が変わり、また彼の娘の担任となり。
どこまで行けるのだろう?
そんな不安が生まれ始めた頃、彼の妻が園を訪れた。程なくして園長室に呼ばれた私は、立ったままで問い質された。
遂に、と思った。
このままで居られる訳がない。どこかで終わりが待っている。
そう知っていた。
その時を、待っていたような気もした。
だから、認めた。
「あなたは何をやっているんですか!」
悲鳴のように叫び、私に怒りをぶつけた園長。無言で立ち上がり、私の頬を引っ叩いた彼の妻。
私はただ立っていた。
頬はひりひりと痛んだけれど、手をあてることは出来なかった。痛いままでいい。惨めでいい。
これで終わるのだと、安堵に似た思いだけが私にはあった。
あれから、まだひと月も経っていない。
開けた土地が単調に続く辺りを過ぎると、遠くに浮かんでいた丘陵地へ入った。
颯はゆるく登り、狭い切り通しを抜けて行く。そこから再び下った所で、前を横切る広い通りへ出た。
「東国から西へ至る幹道だ。香河山と片瀬を分ける国境でもある」
言いながら、時隆は手綱を絞り馬を止めた。
皆も止まり、こちらを向く。
横たわる道は、これまで駆けて来た道とは明らかに違う。車線が数個は取れそうな道幅がある。良く固められた地肌が見える。
「これより先は我が国だ。此処まで来れば、追っても掛からぬ」
「追手…?」
思わず後ろを振り返った。
時隆の向こうに、黒々とした闇が続いている。月の光がぼんやりと照らしている。
ぐるりと時隆が肩を回した。私を挟んでいた腕が緩み、密着していた二人の間に、ぬるく空気が流れ込む。
時隆は、私以上に体を強張らせていたのかもしれない。それに気づき
「ありがとう、ございます」
と小さく言った。
良く判らないけれど、時隆とサムライたちがここまで駆けて来たのは、私を守る為だろう。
守るべきは私ではなく、奈津姫、なのかもしれないが。
「いや」
時隆が目元をほころばせる。
「千草城までは今少しだ」
そう言うと、再び馬を進めた。
千草城は平城だった。幹道を越え、単調な道をしばらく進んだ先にあった。
文字通り平らな土地に建てられた平城は、元は豪族の屋敷などであったらしい。事実、この千草城も、以前は城主の屋敷だったと後で聞いた。
しかし、屋敷、という面影はない。
周りを空堀で囲み、その内側には先を尖らせた杭が並んでいる。更に続く高い塀の向こうには、優美な線を描く屋根が連なっているのが見える。
この辺りは香河山との国境に近い。幹道も通っている。要所にある千草城は片瀬の重要な砦なのだ、と時隆が教えてくれる。
やがて堀に架かる橋と、そこから繋がる二階建ての門が見えて来た。
あれが城の大手門だ、と言う。
二階部分は櫓になっているようだ。何人かが、そこで動いている。時隆の到着を、中へ報せているのかもしれない。
隊列は緩やかに橋を渡り、門へ向かう。
それに合わせたかのように、門扉がぎいと音を立て、こちらへ向かって開けられた。
出迎えるサムライたちの視線を受けながら、私も颯に揺られ、城内へと進む。
大手門をくぐり、広い場所に出る。
正面に、横長の大きな建物があった。
辺りには、篝火がいくつも置かれている。三本の木を組み合わせた上に籠が置かれ、激しく火が燃えている。
月の光だけを頼りに来た私には、眩しく感じられて仕方がない。瞼をぱちぱちさせながら、明るさに慣れるのを待った。
時隆はようやく颯を止め、先にするりと降りた。近づいて来た男に手綱を渡してから、こちらへ向き直る。それから、両手を広げた。
降りて来いってこと?
さあと目で促され、仕方なく時隆へ腕を伸ばす。無造作に受け止められた私は、時隆の胸にぴたりと着陸した。
ぱふっと、軽く空気が音を立てた。
さりげなく体勢を整えてくれた後で、時隆が離れる。そのまま建物へ向かう背中を、私は追った。
はずみでずり落ちそうになる着物を、襟元で抑える。
明るいここで見る着物は、薄い桜色をしていた。滑らかな手触りは、絹だろうか。安い物ではないと、私でも判る。
「わしが贈った物だ」
時隆の乾いた声がした。先を歩いていた背中が、振り返っている。
「これ…?」
「ああ。覚えておらぬのだな」
その鳶色の眼に、寂しげな翳りが浮かんだ。けれどそれは一瞬のこと、すぐに眼差しを建物へと向けてしまう。
そちらから、一人のサムライが歩み寄って来ていた。
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