香河山 4

私は足元へ視線を落とした。

揺れる松明の灯りに、ゆらゆらと揺れて見える。泥だらけのサンダル。その横を歩く、時隆の藁草履。ごつごつとした男の足に、不意に鼓動が早まる。呼吸が荒くなる。

まさか。

そんなこと。

「如何した?」

私の様子に気づいたのか、時隆が歩をゆるめた。顔を覗き込んでくる。

けれど、それに答える余裕が私にはなかった。

タイムスリップ。

その言葉が、頭の中をぐるりぐるりと回り出していたからだ。

もし、本当なら。

時隆たちが、コスプレ集団ではないのなら。

ここが、いや今が、文明という年号の時代なら。

「でも。いつ。どうやって」

私はうめいた。

ラベンダーの香りを嗅いだ訳ではない。巨大な彗星が落ちて来てもいない。

ただ、あの大クヌギに触れて死に場所をさがして、そして。

「これ?」

私は、肩に掛けたままの着物に触れた。

これが降ってきた。頭に被った。

クヌギと着物。

疑問にもならない不思議が、ぐるりぐるりと私を揺さぶる。

「大事ないか?」

時隆が私の腕を掴んだ。思わず、すがるように身を寄せてしまう。

誰かが支えてくれなければ、その場に崩れ落ちそうだった。


搦め手、と時隆が呼んだ狭い門をくぐると、周囲が開けた。

鬱蒼とした木々の間を抜けて来た後だ。皆が一斉にはーっと息を吐く。

左右に細い道が横たわっている。

その向こうには、ただ広いだけの空間が広がっている。田か畑なのだろうか。街灯ひとつないこの闇では、はっきりと判らない。

馬の群れと一緒に、そこに男が一人、佇んでいた。

「範臣、ご苦労であった」

私を支えたままで、時隆が声を掛ける。

まだ十代後半に見えるそのサムライは、ここで皆の馬を預かり、待っていたようだった。

僅かに頭を下げ、のりおみと呼ばれた男は私をちらりと見た。色の白い、可愛らしい顔をしている。

「馬は初めてか?」

時隆が私に訊く。

少し迷ったあとで、私ははいと頷いた。

何度か乗ったことはある。けれど観光牧場で、しかも手綱を人に引いてもらった状態でだ。そんなものを、乗馬経験とは言えない。

「左様か」

中でも一際美しい毛並みの馬に、時隆が歩み寄る。引かれるようにして、私も続く。

栗毛の、賢そうな馬だった。

「小さい…」

思わずつぶやいた。

牧場やテレビで見慣れているサラブレッドより、小さい。体高は数十センチ、低いのではないだろうか。

足が短く、首が太い。鼻も短い。全体的にずんぐりとしている。

「内国産馬?」

私のつぶやきに、時隆が不思議そうな顔をする。

「木曽馬だが?」

「ああ」

聞いたことがある。そして気づく。

サラブレッドやアラブ種の馬が日本に入ったのは、明治時代のはずだ。今、ここにいるはずがない。

胸の内で納得してから気づき、私は額を抑えた。くらくらと頭が揺れた。

いつの間にか、ここを室町時代末期だと受け入れていない?

自分に突っ込み、さらにくらくらしてしまう。

「やはり、何処か悪いのか?」

時隆が気遣わしげに、また私を覗き込む。

「城へ着けば横になれよう。今少し堪えてくれ」

はいと答えた私に小さく頷き、時隆は馬に跨った。そして

「さあ」

と片手を差し伸べる。

「え」

私は馬を見た。

日本の在来種の馬は、サラブレッドに比べ力持ちだと聞いたことがある。その昔は、輸送や農作業に役立ったと学校でも習った。確かに体幅が広く、頑強そうに見える。

けれど、大人二人が乗ったら、さすがにキツいのではないだろうか?

「重たくないですか?」

私は時隆を見上げた。

「む?」

「あの、私と二人で乗ると、この子が」

ははっと時隆が笑った。大きく横に口を広げ、空を仰ぐ。

「颯にとっては何でもない。そなたは折れる程細いではないか」

言いながら、馬の首筋をぽんぽんと叩く。優しく叩いて見せる。

「はやて、と言うの。君は」

私のつぶやきに、馬が顔をこちらに向けた。くるんとした愛らしい目で、私を見つめる。ふるふると鼻を鳴らす。

その鼻先に掌を差し出すと、颯はふんふんと匂いを嗅いだ。それからもう一度、鼻をふるふる言わせる。

どうやら嫌われずに済んだらしい。

颯は穏やかな瞳のまま、私を見ている。

「じゃあ、」

よろしくねと声を掛け、私は時隆へ手を伸ばした。そのまま引っ張り上げてもらう。

すぽり。

そんな感じで、時隆の前に収まる。骨ばったその体に、包まれてしまう。

無意識に体を固くさせた私に、時隆が言う。

「戦となれば、わしは鎧を纏う。颯にも、馬鎧を着けさせる。そなた一人よりも、我らの鎧は重い」

のんびりとしたその口調に、肩の力が和らぐ。

でも、と私は思う。

体が緊張したのは、違う理由なのだけど。

回された時隆の腕が熱い。

「良いか」

凛とした声に顔を上げると、皆それぞれに馬に跨り、出発の準備を整えたところだった。

「はあっ!」

声を上げ、時隆に頷いている。

「参るぞ」

声を張ったあとで、時隆は今度は小さく、私に言った。

「余分な力を入れず、身を任せろ」

「はい」

私はお尻の位置を直し、肩の力を抜こうと意識する。

その肩に顎を乗せて、時隆が体を寄せてきた。手綱を握った両腕が、私をしっかりと挟み込む。

わ、わ、わ。

せっかく抜いた力が、また全身に走る。体中が固くなる。奥歯を噛み締めてしまう。

ふっ。

耳たぶに息がかかった。

私の緊張に、笑ったらしかった。

「行くぞ」

笑いを含んで言うと

「せいやっ」

時隆は声を上げ、踵を颯の腹に入れた。

その合図で、馬は走り出す。

気づけば松明は消され、辺りを照らすのは月の光だけだった。厚い雲の隙間から射す光は、驚くほど明るい。

人工の明かりが、ひとつとして見当たらない景色。それを淡く包む月光。

美しかった。

その美しさの中を、颯は気持ち良さそうに駆けている。

私はたてがみを掴み、ただ見ていた。

前後左右を、馬が駆けている。跨る無言の男たちが、ひたすらに前へ進む。

私もまた、前へ前へと運ばれて行く。

どこへ行くのだろう。

不安は、もちろんまだ胸にある。

けれど、余りに景色が美しくて、その不安を突きつめて考えられない。

この美しさの中に、自分がいることが不思議でならないのに。

また、流されるのかな。

ふと思った。

流されて、運ばれて行く。

いつもそうだ、私は。

ただ周りに流されて生きて。その結果が、あれだ。

口元に、皮肉な笑みが浮かんだ。

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