香河山 1
はあはあと呼吸を繰り返す。じっとりと汗ばんだ胸元に右手を当てる。左手は大クヌギに縋ったまま、離せない。
ゆるゆると腰を伸ばす。足踏みをしてみる。
大丈夫、ちゃんと立っていた。
二本の足で地面を踏みしめたことで、こんなに安心できるなんて。
「あ」
そして突然に気づく。
空気が、変わっている。
緑の、草の木の匂いが強い。足元からは、湿った土の匂いがむわんと立ち昇ってくる。湿気をはらんだ夜の空気が、まるで水中のように肌を湿らせる。
濃かった。何もかもが。
闇の色。虫の声、不意に耳元を過ぎる羽音。
私を取り囲むすべてが、濃厚に息づいている。絡みついてくる。
「違う…」
これは、私の知っている世界じゃない。
そう確信できるものが、周囲を満たしている。
動けなかった。
目だけで辺りを見回す。そして気づく。
灯りがない。
広場にあった、外灯の明かりが見えない。
ぎこちなく首を回した。少し背伸びをしてみた。何の光もない。
「停電…?」
心細さが身体中を占めた。
一度、戻ろう。
そう決めて、私は慎重に足元を探った。後ろを向く。足を動かす。左手をクヌギから離す。
最初に右足を上げ、少し前に下ろし、次に左足を上げて進める。
まるで歩き方を忘れてしまったみたいに、ぎこちなく動き出す。
この広場の入口まで戻れば、私が居た病院が見えるかもしれない。
あの総合病院は、この辺りで一番大きな建物だ。非常時に備えて、自家発電を備えているとも聞いた。
灯りがひとつでも見えれば、この心細さも解消されるだろう。
そう、心細い。怖い。この闇が。たまらなく、怖い。
見えない、ということがこんなにも怖いものだと、初めて知った。
「死ぬつもりだったくせに」
わざと声に出して言ってみる。苦笑いを浮かべてみる。
そうして、心を少しでも落ち着かせよう、としたとき。
異質な匂いを嗅いだ。
焦げ臭い。魚ではない、もっと別の何かが、燃えている匂い。
「次は火事?」
動きを止めて、辺りを見渡した。知らず知らずのうちに、両肘を抱いている。
やっぱり何かがおかしい。違和感が加速していく。
素足とサンダルの間に入り込む、土の湿り気が気持ち悪い。
「土…」
そう土だ。
爪先を滑らす。植えられていた芝の感触が、ない。
踵で地面を踏みしめてみる。サンダルがやんわりと沈む。
これは土だ。芝生じゃない。
振り返ってみる。
慣れてきた目に、闇色の微妙な違いがわかる。
あのすっくと伸びている影は、確かに大クヌギだ。そこにある。間違いなく、ここはおっこし山の頂だ。
「あれ…?」
何か、白っぽい物が見える気がする。いちばん下の枝に、何かが揺れている。布のようなものが、ぶら下がっているみたいだ。
「あんなの、あったかな」
いや、なかった。なかったけれど、戻って確かめるほどでもない。
視線を外し、もう一度クヌギに背を向けて歩き出した。
前に見える薄い藍色は、何もない部分。下の濃い藍色が地面。その境まで歩けば、下る階段がある。
下り切れば住宅がある。車も通る。病院までだってすぐだ。それほど遠い道のりじゃない。
自分を励まして歩く。
けれど、足元の湿った土は続いている。焦げ臭い匂いは、段々と強くなる。
いったい何が起こっているんだろう?
そう思ったとき。
ぶわっっ!
闇の向こうから、炎の柱が噴き上げた。
「わあっ」
叫ぶ。しゃがみ込む。目を瞑り、両の肩を抱きしめる。
熱風が、正面から吹きつけてきた。
熱い。
ばちばちと何かが爆ぜる音がする。焦げた強い匂いが私に巻きつく。いがらっぽさが目に、喉に沁みてくる。
「なんなの…?」
薄くまぶたを開け、自分自身を確認する。
ぼんやりと浮かぶ白は、私の手の色。その手で頬をさすれば、汗ばんだ肌の感触がある。
大丈夫、生きてる。私はちゃんと居る。
目を上げた向こうに、もう火柱はなかった。
しゃがんだまま前に手をつき、這うようにして広場の入口へ進む。下を覗き込む。
そこに巨大な炎が見えた。
燃えている。何かが燃えている。
建物だ。でも、
「でも違う…」
おっこし山のふもとには、住宅地が広がっていた。車道が通っていた。その向こうに総合病院があった。
けれど、そこで燃えているものは。
平家の、大きな建物。
お寺や神社に少し似ている。和風の建築物。
屋根が優美な曲線を描いている。そこから張り出した軒先。開け放たれた木の戸。ぐるりと建物をめぐる廊下。庭のそこここに植えられた木は、高さはまちまちだけれど、きれいに整えられている。
そのすべてを、炎が蹂躙していた。
今また、屋根を突き破り炎が立ち上がった。建物の中を、オレンジの火が蠢いているのが見えた。
ごうっっ!
盛大に白い煙を吹き上げ、奥の廊下が崩れ落ちた。そのまま力尽きたように、崩壊はぐずぐずと広がっていく。
これは何だ。
ここは何処だ。
瞬きを忘れていた目が、ひりりとした。炎の熱をまともに受けている。
ぎゅうっと固く目を瞑る。
そして、ゆっくりと開けてみる。
何も消えてくれなかった。
上へ、上へと昇る炎。黒い灰が共に舞い上がり、吹かれ、また落ちる。その間で、もわりもわりと湧いては舞う白い煙。
闇の中で、それらだけが動いていた。まるで生き物のように。
「ありえない」
つぶやいていた。
だって、この火事場の向こうには闇しかない。これほどの大火事なのに、消防車のサイレンが聞こえない。
私鉄の駅から歩いて10分くらいの場所だ。スーパーがある、コンビニがある、家がある。たくさんの人が住んでいる。
なのに、明かりが見えない。音が聞こえない。
建物から、一段と激しく炎が上がった。煙が、辺りを埋め尽くす勢いで生まれている。
熱を受けた頬は熱いけれど、背筋には、冷たいものが伝い上がってきていた。
建物が輪郭を失っていく。
どうしようと思うけれど、どうすればいいかわからない。携帯は置いてきた。消防に報せるには、ここを下りるしかない。けれど熱い。煙も向かってきている。
動けず、考えも浮かばず、私はへたり込んだままだった。ただ火事場を見下ろしているだけだった。
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