おっこし山 3

九時の消灯まで、あと二時間。

枕元に置いた腕時計を確かめ、うなじで髪をひとつに結んだ。

ベッドから立ち上がる。ゆっくりとした歩調で、病室を出る。

廊下にまだヤエさんがいた。眠っているのか、うなだれたような姿勢のまま車椅子に座っている。

見つめたまま止まる。目をつむる。祈る。

ヤエさんが、お家に帰れますように。

それから背中を向けて、ゆっくりと歩き出した。他に人はいない、いない筈と逸る心をなだめながら、出来るだけゆっくりと。

病院から貸し出されたパジャマは、作務衣風の上下だ。ピンクが目立って仕方ないけれど、この季節だ。何とかなる。

目についたトイレに入る。トイレ用のサンダルに、スリッパから履き替える。100円ショップで売られているような、クロックスを真似たこれまたピンクのサンダル。

全身ピンク。

まあ、きっと、何とかなる。

廊下も階段も、一階のロビーにも、人気はなかった。この時間はもう外来診療を行なっていない。病棟では患者の夕食が終わり、職員が交代で食事休憩を取る時間帯だ。

少し離れた救急センターでは、たくさんの人が働いているのかもしれない。が、ここまで歩いて来て人の気配はなかった。

散歩にでも出るような顔をして、正面玄関から堂々と出て行く。

駅までの無料シャトルバスが発着する、玄関前のロータリーには、まだ幾つかの人影があった。見舞いの帰りなのか、どこか疲れた姿に見えた。こちらを気にすることなく、携帯をいじったり、ぼんやりと遠くを眺めたりしている。

梅雨時の夜気が、肌にまとわりつく。どこからか虫の声がする。雨をこらえているような空は、厚い雲に覆われている。そのわずかな隙間から、黄色く丸い月が見えた。

「満月…」

呟きがもれる。

久しぶりの外だ。気配を目で、肌で、耳で味わいながら、病院の裏手に向かった。

人気のないがらがらの駐車場を抜ける。

歩行者用の出入り口を過ぎると、一軒家が建ち並ぶ住宅地へ出た。

ここまで来れば大丈夫。看護師たちに呼び止められることはない。

あとは、入院患者が病院を抜け出していますよなどと通報されないように、ピンクの作務衣を着て散歩している人になり切るだけだ。

コンクリートで固められた川が見えてくる。そこに架けられた橋を渡る。川沿いを歩くサラリーマン風の姿が、左の遠くに見えた。少し足を早めた。

二つほど住宅のブロックを過ぎると、T字路にぶつかる。右に折れ、顎を上げ辺りを見回す。

左の上に、こんもりとした木の固まりが見えた。

おっこし山だ。

それを目指してさらに歩く私を、乗用車が一台追い越して行く。

左前方に小道が見えた。近づくと、錆びた立札が立っている。

〔⇦おっこし山〕

素っ気なく書かれた、掠れた文字に従って小道に入る。白くざらついたコンクリートを上る。

膝の調子は良好だ。目的のないリハビリでも真面目にやれたのは、今夜のためだったのかもしれない。

私は一歩一歩を力強く、調子良く進めて行った。

汗が滲んできた。

小道は右に緩やかにカーブし、次は左に、また右にと、くねくね伸びていく。進むにつれて、街灯が遠くなる。家の灯りも、木々の間に隠れてしまった。

ときおり下の道路から、過ぎる車の音が聞こえる。絶え間なく鳴き続ける虫の声がする。

竹林を過ぎると、平坦な道が少し続いた。その先に細い階段が見えてくる。階段の脇に

〔おっこし山へようこそ〕

と書かれた看板が立っていた。

どうやら、ようやくおっこし山のエリアに入ったらしい。

一度深呼吸をして、額の汗を拭って、私は階段へ向かった。

土を踏み固めた段々の縁に、細い丸太が埋め込まれている。手作り感あふれたその階段を登り、左に曲がり、また登り。息が切れ、肺の辺りが痛くなったころ。

不意に視界が開けた。

丘の頂に着いたのだ。

素朴な広場だった。

教室ひとつぶんほどのスペースに、雑に芝生が植えられている。右の隅に竹で組まれたベンチがある。その傍に背の低い外灯がひとつ。

私は、はあはあと喘ぐ息を整えながら、広場に足を踏み入れた。

正面に大木がそびえている。ヤエさんが話していた大クヌギのようだ。

その根元に、石づくりの小さな祠があった。膝くらいの高さ。まだ新しい物だ。扉は閉まっていて、中に何が祀られているのかはわからない。

祠の前に立ち、クヌギを見上げる。

私一人では抱え切れない太い幹。それが空へ向かい、真っ直ぐに伸びている。

枝たちが、思い思いに広がっている。緑の葉をつけ、雄々しく立っている。

神々しく気高い大木だった。

ここに紐を結えるなんて。首を括ろうなんて。

「バチあたり過ぎるなぁ…」

そう考えてしまった自分が申し訳なくて、祠に手を合わせた。

「さて、どうしよう」

ポケットに手を入れて確かめる。ヤエさんを繋いでいた布紐はそこにあった。

丈夫な紐だ。

これがあれば、今度こそ、ちゃんと死ねると思った。だからここまで来た。

ここに神様がいる、なんて信じないけど。

「死ぬには、ちょっと」

ふさわしくない気がする。

「どうするかな」

御神木以外の木を探すか。

それとも神様にお祈りするか。

と考えてから、笑った。

仮にここに神様がいたとしても、私に何かを与えてくれるとは思えない。

生まれ変わるチャンスなど貰える訳がない。力一杯生き抜く場所なんて、私に有るはずがない。

私は最低の人間なのだから。私に生きる価値などないのだから。

何度も繰り返してきたその想いに、唇を噛んだとき。

ふいに虫の声が止んだ。ぷつりと断ち切られたように。

「なに?」

何の音もない。こんな静寂を味わったことはない。

肩に力が入る。鳥肌がたつ。

何かが起きている、と五感の全部が言っていた。すると。

ひょい。

そんな感じだった。

「え?」

足が地面から浮いた。

「え、え?」

頭が、肩が、胸が、お腹が、太腿が。

ふわりと浮いた。

何かにつままれている。軽く持ち上げられている。

「え、え、うそ、うそ、うそ!」

全身が宙に浮いている。

目の前にあるクヌギの輪郭がぶれた。二重いや三重にぼやけて見える。見ていた画面に、突然フィルターが掛けられたように。

「いやっ」

無意識にもがいていた。首を振っていた。肩をよじり、腰をひねり、足をばたつかせていた。

けれど、体はふうわりと持ち上げられたままだ。見ている景色は、ぼやけたままだ。

「なにこれっ!」

恐怖に心を鷲掴みにされたとき。

不意に体がすとんと落ちた。

「わっ」

爪先から地面にぶつかる。その衝撃に前につんのめる。慌てて大クヌギの幹に縋った。







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