おっこし山 2

なのに、そこに通りかかったのは花屋さんの軽トラック。

荷台の植木を覆う柔らかな幌に、私は受け止められてしまった。そしてそのまま、するりと路上に着地。しかも足から、きれいに。

結果。

左手首切創、右足骨折、右肩挫傷。右頬から前頭部にかけての擦過傷。

全治六週間。

それで済んでしまった。

残ったものは、自殺未遂のバカ女という称号だった。

入院から数日後、気弱な上司が、更に上の命令で見舞いにやって来た。決して目を合わせようとしない姿が、気の毒になった。だから言われるままに、その場で退職願を書いて渡した。

幼稚園教論が、担任する園児の父親と不倫関係になった。それか相手の妻にばれ、家庭を壊した挙句の自殺未遂。

それが、私のしでかしたこと。

どれだけ職場に迷惑を掛けたか、解っている。受け止めてもいる。

自ら辞めることで謝罪になるなら、こんなのは何でもない。

私は深く頭を下げた。

「申し訳ありませんでした」

両手で、退職願と記した便箋を差し出した。

明らかにほっとした顔で、上司はそれを受け取った。

五十代、女性、独身、処女(推定)な上司。便箋を丁寧に折り、ブランド物のトートバッグにしまう。

そして

「上守さんは、まだ若いのだから」

と、細い縁の眼鏡を指先で押し上げた。

「いくらだってやり直せるわ」

小さな声で言い置いて、帰って行った。最後まで、上司は私の目を見なかった。

これで、無職が決まった。


あの日、救命救急室に運び込まれた私が、意識を取り戻したとき。

私の胸に突っ伏して泣いた母。その横で、奥歯を噛み締めていた父。

その二人は、医者から近々の退院を示唆されると、顔を見合わせた。

「どこか、他所の場所で、やり直したら?」

母が言った。

「それは、つまり、家を出て行けということ?」

尋ねたら

「ご近所の目もあるし。その方があなたにはいいと思う」

きっぱりと言われた。そして、両親共に私から目を逸らせた。

どうせ、同居する双子の姉がヒステリーでも起こしたのだろう。世間体がどうの、と。彼女の娘は、この春、有名私立小学校に入学したばかりだ。私の存在を抹殺したいくらい、怒り狂っているのだろう。

お互いたった一人の姉妹なのに、一度も見舞いに来ない。そういうことだ。

これで、住所不定も決まるか。

けれど私は、上司や両親を、姉を、恨む気になれなかった。死に切れなかった私が悪い。

部下に死なれた上司は

「何の力にもなれず、上守さんを死なせてしまいました」

と、泣き崩れれば良かった。

娘に先立たれた親は、ただ嘆き続ければ良かった。

同情されはしても、責める人はいないだろう。

それなのに。自殺未遂の部下や娘を持つなんて。

管理不行き届きですよとか、どんな育て方をしたんでしょうねとか、言われてしまうのだ。死に切れなかったがために。

高層マンションから飛び降りれば良かった。

私は何度後悔しただろう。

でも、この町に高い建物はない。

自分が生まれ育った田舎町を、これほど恨めしく思ったことはない。


車椅子を自在に操れるヤエさんは、白い紐で繋がれていた。

階段を落ちてしまったら大変。

そう言って、看護師たちはヤエさんの車椅子と、手すりを結んだ。

陽が落ちた今は、廊下の手すりに繋がれているようだ。病室の外から、ヤエさんの声がする。

夜勤に向けて、人手がなくなる時間帯だ。なるべく多くの職員の目に入るように、病室の奥から連れ出されたのだろう。

「この車壊れているよう。いくら漕いだって進めやしないよう」

ヤエさんの、ざらついた声は続く。

肉がこそげ落ちた腕で、懸命に車輪を回しているのかもしれない。

「あら、そう、変ねえ」

忙しい看護師の、気のない返事が聞こえる。

彩りの乏しい夕食を終えたところだ。

六床の部屋を、白い蛍光灯が照らしている。

私とヤエさん以外に、起きている人はいない。自分で食事を摂れる人もいない。あとの四人は、みな寝たきりの患者だ。

ここは、そういう部屋なのだ。

「治療はもう終わりました。退院日を決めてください」

主治医から事務的に告げられたとき、両親は無言で俯いた。返す言葉を持たない二人に、私が帰る場所はないのだと実感した。

「ご自宅へ帰れなくても、とりあえずベッドを空けてください。ここは急性期病棟です。治療が必要な患者が大勢います。その人達のために、ここのベッドはあるんです」

淡々と告げる医者に、私は頷いた。

私はもう歩ける。日常生活を支障なく過ごせる。その私が、いつまでも救急病院のベッドを占領するのは、間違っている。

けれど両親は、俯いたままだった。

「参ったな」

私と同じくらいの年頃だろうか。まだ若い主治医は、同情するような苦笑いを送って寄越した。

「とりあえず、他の病棟へ移ってもらえますか?そこで今後を決めてください」

はい、おしまい。

そう言うかのように、主治医は青い表紙のカルテをぱたんと閉じた。

こうして、私はこの慢性期病棟へ引っ越して来た。

積極的な治療はしない。家族が見舞いに来ることはない。医療から、家族から、見捨てられ行く場のない人が眠り続ける部屋。

それが、この病室だった。

けれど、ヤエさんは起きている。家に帰ろう、帰りたいともがいている。

食事のトレイを片付けるために、部屋を出た。大きな銀色の配膳車に、トレイを入れる。

「ああ、あんた。そこの」

振り向くと、ヤエさんが皺だらけの腕を振り回していた。

「動かないんだよ、これじゃあ帰れないんだよ、何とかしてくれよう」

泣いているようだった。

私は、ヤエさんの傍らにしゃがんだ。車椅子の車輪と、廊下の手すりが結ばれている。使われていない余分な紐が、車椅子の背中のポケットに押し込まれていた。

「帰りたいよね」

ヤエさんの手に、私の手を重ねた。

ヤエさんの肌は乾いて、柔らかくて、使い込んだこなれた布みたいで心地良かった。

「帰れるといいのにね」

そっと、その手をさする。

ヤエさんが目を閉じた。急に眠たくなったみたいに、静かになった。

しばらくそうした後で、私はそうっと立ち上がった。

車椅子のポケットから、紐を一本取り出して、上衣のポケットにしまった。

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