おっこし山 1

この病院の東にある丘を、おっこし山と言う。

それを思い出させてくれたのは、ヤエさんだった。

志田ヤエさん。おなじ病室の入院患者だ。歳は九十をいくつか越えているらしいが、頭ははっきりしている。本人がそう断言するのだから、間違いない。

誤嚥性肺炎で入院して、半年。肺炎はすっかり良くなったのに、病院暮らしが続いているらしい。

「新入りさん?」

病室の入り口で、誰にでもなく頭を下げた私に、ヤエさんだけが反応した。

「あ、はい」

今度はヤエさんに向かって頭を下げた。

「よろしくお願いします」

今日、私は急性期病棟からこの部屋へ移ってきた。一番手前のベッドを使うように、看護師に言われている。

ヤエさんは、一番奥の窓際にいた。小さな体を車椅子に埋めていた。一本の歯もない口が、黒々と横に広がっている。笑っているらしかった。

「あたしぁもう半年もここに居るんだよ。すっかり良くなったってのに、うちに帰してもらえやしない。あんたからセンセイに言ってくれないかね?」

ヤエさんのお家は、病院のすぐ近くらしい。

「あっこの、おっこし山の向こうだよ。知ってるだろ?」

ヤエさんが、白い顎を窓に向ける。

私の家もすぐ近くだけれど、残念ながらヤエさんのお家は知らない。

「おっこし山は知っていますけど」

申し訳ない気持ちになって、そう答えた。

紙袋ひとつの荷物を、空いているベッドに乗せてから奥へと歩く。

病室は二階にある。その窓辺に、ヤエさんの車椅子と並んで立った。

「あれ。あれがおっこし山だよう」

ヤエさんの枯れた人差し指が、窓の向こうを指す。その先を目で辿る。

今日も曇り空だ。重たい灰色を背景に、けれどおっこし山は、様々な緑を纏っていた。

濃く深い緑、黄色がかった緑、若い緑、茶色く変色しかけた緑。もこもことした木々に、丘の全体が包まれている。その中の所々で、尖った竹が固まりひゅっと顔を出している。

雑然とした緑。それぞれの生命が、主張し合っているような丘だ。

「なんであの山をおっこしと呼ぶか、知ってるか?あんた?」

短い白髪頭を揺らし、ヤエさんが私を見上げる。

「いえ」

私は首を振った。

小学生までは、おしっこ山と呼んでいた。

おっこしなんて変な名前、意味わかんない。きっとおしっこの間違い。

そう思っていた。

「おっこし山はさ、昔はお越し山て呼んでたんだ。どなたがお越しになるか、わかるかい?」

「いえ、誰なんですか?」

「神様だよ」

ヤエさんが声をひそめて言う。大変な秘密を打ち明けるように。

「あっこには神様が降りて来なさるんだ」

「神様ですか」

私はもう一度おっこし山へと目を向けた。

「あっこの頂におっきなクヌギの木があるんだよ。それが神様の木でな、祈るとな、神様が降りて来なさる。生まれ変われるんだよう」

「生まれ変われる」

「そうだよう、本当のことだよう」

ぼんやりと答える私に苛つくように、ヤエさんの声が大きくなった。口の端に泡をためて言いつのる。

「ここでは生きにくい魂を、何処ぞへ飛ばして下さるんだ。力一杯生きられる別の何処ぞにだよう。あんたなら神様も憐れんでくださる」

思わず目を見開いた。

「あんたなら、別のいーい場所に飛ばして下さるだろうよう」

ヤエさんを、鋭く見下ろしていた。

私がここにいる理由を知っているのだ。こんなお婆ちゃんまでが。

右足がにぶい痛みに疼いた。


私が救急車でこの病院に運び込まれたのは、ひと月ほど前のことだ。

「狂言じゃないの?」

陰で嗤う看護師がいるのは、知っている。

けれど私は本気だった。死にたかった。死ねると思っていた。

肉切包丁で手首を切った。

自宅だった。

そこへ、思わぬことに姪が帰って来た。可愛い子だ。私に懐いてもいる。血にまみれた姿を見せたくなかった。

左腕にタオルをぐるぐる巻きつけ、季節外れの厚手のパーカーを着た。

「ななちゃーん!」

ランドセルを玄関に放り投げ、姪がばたばたと階段を上がってくる。

「きょう、給食なかったあ!お腹すいたよー、なんか一緒に作ろうよー!」

ああ、また姉は。

私は舌打ちする。

自分の娘の予定を把握しないで、出かけたのか。あいつらしい。

二階の廊下に出る。両親の部屋に忍びこみ、姪をやり過ごす。

階段を上り切った勢いのまま、姪が奥の私の部屋まで駆けて行く。

ごめん。

その小さな背中を見送り、階段へ向かう。

パンか何か、あの子の昼ごはんになるようなものはあるはずだ。自分で見つけて、食べる知恵も。

ごめんね。

階段を急ぎ足で降りて、靴を履いて外へ出た。

痛みとめまいで、まともに歩けなかった。

このまま放っておけば死ねるだろう。だけど居場所がない。死に場所を探す気力も残っていない。

ふらふらと歩く内に国道に出た。平日の昼間だ。びゅんびゅんと音を立てて、車が行き過ぎる。

そこに歩道橋があった。

大して高さがある訳ではない。ないけれど、その真下では車が行き交っている。大きなダンプも多い。

もう一思いに終わらせてしまおう。

よろめきながら歩道橋を登った。

躊躇わずに柵を乗り越え、飛び降りた。

走馬灯が見えた、気がした。

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