香河山ものがたり
木村えつ
プロローグ
送られてくる信号に、異常はない。
ひとつ息を吐いた。
娘が残した遺伝子は、彼の地に着実に根を下ろしているようだ。
正面のモニターに、青い惑星が浮かんでいる。漆黒の闇に浮かぶそれは、輝石のように美しい。
今一度深く息を吐き、私はチェアーに背中を預けた。知らず知らずの内に、モニターへ前のめりになっていた。視線だけは放さないまま、腕を組む。
幾度となく己に問い掛けてきた想いが、また込み上げてくる。
そう、あれは未開の星。異性文明が関わることを、固く禁じられた世界。
私ごときが手を出してはならない。あの美しさは未成熟さゆえのもの。穢れを知らぬ幼子と同じ。
それを守るため、宇宙連邦政府は民間人の立ち入りを禁じているのだ。
理解している。なのに。いや、だからこそか。
見つけなければ良かったか。何処かで諦めれば良かったのか。
答えは見つからないまま、今日まで来てしまった。
滅びゆくもののエゴだ。宇宙を統べる神への冒涜だ。
解っていても、巨大なモニターに浮かぶ惑星から、目が離せない。
無理に目を瞑り、眉間を指で揉む。
しかし閉じた瞼の裏に、彼の地の景色が浮かんでくる。
濃い緑の色に包まれた丘。その裾野から広がってゆく田畑。ぽつりぽつりと点在する、粗末な木の小屋。そこで営まれるささやかな暮らし。生まれる命、育まれる子、そして過ぎる時間に抗えず抗わずに、死を迎える肉体。
それは、私たちが辿って来た道でもある。取り戻せぬ歴史。失って初めて気づく、儚く愛おしい月日だ。
びぃーっびぃーっ
不意に警告音が室内に響いた。
反射的に身を起こし、キーボードに手を伸ばす。
モニターが、青い惑星をクローズアップしていく。塩を含んだ水に浮かぶ島国を捉える。その南東部に位置する平野。そこにカゴヤマと呼ばれる地域がある。
低い山に囲まれている。サラダボウルの底のような立地だ。底のほぼ中央に、丘がひとつある。
その丘から届く警告音が、遺伝子の危機を報せている。
モニター画面は、丘の頂きにあるアンテナに迫っていた。現地の植物に似せたそれは、センサーでもある。
カゴヤマはヨルのようだ。
この青い星は、ヒと呼ばれる恒星を巡る惑星である。このヒに照らされる時間帯をヒルと言い、反対に闇に埋もれる間をヨルと呼ぶ。
ただヨルであっても、全くの暗闇ではない。この惑星の衛星ツキがヒの炎を反射させ、光をもたらす。
その光は、惑星の位置により明るさの違いを生む。今は28の周期で訪れる、明るいツキのヨル。マンゲツだ。
モニターのピントが合い、ツキに照らされたアンテナをくっきりと浮かび上がらせた。
サインだ。
アンテナの一部に、薄い布がかけられている。カゴヤマに生息する生物、ヒトが身に纏う衣服。コロモだ。
また途切れようとしているのか。
私は拳を口に当てた。
カゴヤマから私への発信。あの薄い布は、それに違いない。
アンテナに異物を知覚させる。感知したセンサーは、瞬時に私へ異常を報せてくる。
これを教えたことはない。しかしカゴヤマのヒトは、いつの間にか使いこなしている。
必ずツキの明るいヨルを選ぶ。使われる異物は大抵がコロモだ。コロモには、遺伝子の一部を組み込んである。これがあるから、瞬時にDNAデータも届く。間違いなく、娘の残した遺伝子だと、危機が迫っていると私に知らしめる。
第一世代から口伝されたこの現象を、ヒトはデンセツと名づけた。そして見知らぬ私をカミと呼び崇め、縋る。
カゴヤマのヒトたちにとって、私は圧倒的な力を持つ存在だ。失われた命を、代わりを与えて来たのだから。相互理解など到底できぬ、支配者にも成りうるもの。
しかし、そんな私への畏怖を受け入れる懐の深さが、時には巧く利用する強かさがヒトにはある。
全く興味深い生命体である。
では、あるが。
やはり、交配種は弱いか。
娘が遺した卵子と、カゴヤマのヒトとの交配種。その進化の過程を辿る中で、絶滅の危機は幾度となくあった。
病が、老いが、未熟なカゴヤマの環境が命を縮める。次の世代へのバトンを残せないまま、息絶えてしまう。
その度に私は、代わりの遺伝子を送り込んだ。時系列の中から、適当な種を選別して移動させる。そうして、遺伝子の進化をかろうじて繋げてきた。
この島国の時系列を見れば、これ以上はない良い条件が、ここには揃っている。このカゴヤマで遺伝子を増殖させれば、数十世代後に惑星全体を支配する事も可能だ。
だが。
拳をほどき、顎をさする。
これ以上は無意味かもしれない。私たちの遺伝子と、カゴヤマのヒトとの融合は、不可能なのかもしれない。
現に今得られているデータ上では、何十、何百先の世代をシュミレートしても、惑星支配には至っていない。
ううむ、と無意識に唸り声をあげていた。
生態系はおろか、私は星の時系列にまで手を加えた。幾つものパラレルワールドを生み出してしまった。
これ以上手を広げたら、データが膨大になり過ぎる。私一人の手には負えない。このシュミレートに、何の結論も見いだせなくなってしまう。
しかし。
それでも、七世代に渡り続いた遺伝子だ。計算上では、この先も存続は可能と判っている。
ここで途絶えさせたら、これまでの全てが水の泡だ。なあ。
娘の青い瞳を思い出す。
モニターの闇に浮かぶ、美しい惑星を見やる。
私たち種族のラストチャイルド。
それが娘だった。
娘が私に託した卵子は、私たちの遺伝子を遺す最後の種だ。
少女のまま、故郷の星と共に消えた娘。
未だ他の文明を知らず、己だけで輝く星。
澄んだこの青さは、まるで同じだ。
この惑星には、私たちが失った美しさがある。命が生きる世界がある。私たちの遺伝子を根づかせたい。その衝動が抑えきれない。
そう。
このまま滅びる訳にはいかないのだ。
私は手元へ視線を落とした。
キーボードへ、ゆるゆると指を乗せる。
システムを開く。
娘の卵子を、初めて下ろした時代まで、カゴヤマの時間を戻す。そこから、未来へと辿る。探る。遺伝子のデータに目を凝らす。
世代に、生命が過剰供給されていること。トリップに耐え得る強さを持つ個体であること。途絶えた遺伝子と、身体、精神的要素が類似していること。
それが条件だ。
ようやく、条件に見合ったひとつを見つけた。
大きく息を吐く。
もうためらいはなかった。
コマンドを呼び出す。素早くクリックする。そして、ひとつの命を過去へ飛ばす。
機械的に。
冷徹な科学者として。或いは、ラストチャイルドの、今はもういない娘の父親として。
そう、ただ機械的に。
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