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 船は喫水が浅く細い形状をしていた。荒波がたてば転覆しそうであるが全くそんな事は起こらない。テベレ川は平たんであり、一部の急流や分岐を除いて、川の流れに任せれば船は海へと流れ着く。船には客二人を含めた大きな荷があり、これを幾人かの漕ぎ手と水流が動かす。二人は横並びに座り、揃って動く櫂を眺めていたが、飽きたのか変わり映えのない景色に目を移す。春の頭の川下りは凍えるほど寒く、アンナが外套に首をうずめる。

「これからどうなさるのですか?」

 二人は互いに見合う。リアンは自身のことは決めていたが、アンナの処遇に困り軽い返答をする。

「ウィグネルの都フィルへ行きます」

「どこですか?」

「このまま五日も南下すれば着きます。歩けば一月はかかります」


 それきり二人は黙ってしまったが、アンナは黙っていると不安になると見えて、また口を開く。

「どうして旅をしてらして?」

 個人的なことをアンナが聞くのは初めてであったのでリアンは答えに迷った。

「……居場所がなかったんです」

「居場所が?」

「私には信仰が無いと言ったら信じますか」

「信仰の無い人なんていませんよ」

 諭すような口調で言う。

「信仰のある人は他人本位に生きます。それは偽善に見えても彼らにとっては充実した正しい生き方です」

「どういうことですか?」

「私には愛がないのかもしれません」

「そんなことはないですよ」

「なぜですか」

「もしあなたが人の心を知らぬ人非人なら今頃私はここにいません」

 そう言うアンナを見てリアンが聞く。

「後悔していないんですか」

「まだ後悔しているんですか?」

 くすくす笑いながら言うアンナ。波止場でも顔をぐしゃぐしゃにしていたのは侯爵夫妻だった。やはり強い娘なのかもしれない。

「心配ではないのですか?」

 彼は愚なことを聞いたと思った。アンナは笑うのををやめ、彼の顔を静かに見つめるばかりであった。


「さっきのはあなたが自分勝手に生きているということですか?」

 しばらくしてアンナが言った。あの言葉の意味を考えていたらしい。

「違います。いや、そうかも」

「あなたは信仰の為に生き信仰によって生きるのでしょう」

 おかしな語調である。

「また飛びました」

「いえ……」

 彼には総て同じことであった。

「……親を捨てた娘は天へなんて行かれませんわ」

 彼はまた後悔して、景色に目をやった。


 彼らはダボスという町で一晩休み、翌朝また船に乗った。話す事もなかったが、寂しげなアンナを見て話しかけることにした。

「寒くはありませんか」

「え?」

 彼女は突然話しかけられて聞き返したが、

「ほら。信仰心が無いなんて嘘じゃありませんか」

 そう言って笑った。

 信仰とは愛することであり、広義に取るまでもなく隣人愛が含まれる。

「まだそのことを考えていたのですか」

 彼は呆れた上に気を悪くした。

「信仰が無いだなんて言う人は初めてで……」

「別に嘘ではありませんよ。私には祈る主がいない」

 彼は何だか意固地になっていた。

「では私があなたの分も祈ってあげます」

 そう言ってまた可愛らしく笑い出す。彼は余計なことを言った昨日の自分を恨んだが、後日、度々この時のことを思い出しては可笑しく思うのであった。


(深窓の令嬢とはこんなであったか)

 アンナはしばらく笑い続けた。そうしてまたリアンに話しかけた。彼の返答を待って様子を窺うのだが、彼が気のない返事をすると不満げに押し黙る。そしてしばらくすると何やら楽しげに話しかけてくる。彼には興味の無いことばかりで適当に返す他無い。そして遂に言った。

「よくしゃべるな」

「あ……ごめんなさい。どれだけ話しても怒られないのが嬉しくて……」

 もちろんアンナは両親とはよく話した。だが同年代で好きなだけ話を聞いてくれるものなどいなかった。やってくる客達は自分のことばかり話す。おしゃべりな彼女も客前ではお淑やかにするように教育されてきている。

「迷惑でしたか?」

「ああ」

「ごめんなさい……」

 そうしてアンナは黙った。船全体が淋しくなってしまったように思えた。

 リアンは必要であればあっという間に嘘を並べ立てることができたが、少しでも不要と感じてしまうと嘘がつけぬ質であった。つまり余計な嘘はつかない。しかしこの時は、迷惑だと言ってから、それが却って嘘であるような気がしてしまった。

「嘘だ」

「気を使わないでください……」

「誰がお前に気など使うか」

 彼は面倒なことになったと思い、やや強引に話を進めようとした。

「え……」

 アンナはリアンのこの物言いが少し怖かった。でなくとも、人に、殊に男性にお前呼ばわりされるのは初めてである。

「いや、失礼。でも自分は下らない嘘はつきません」

「……ありがとうございます」

 伝わったのか伝わらぬのか要領を得ない発言である。結局船上は静かになった。




 ウィグネル王国の都フィルはテベレ川中流の東岸に位置している。東西貿易の品々がテベレ川をつたって北上し、帝国北部の人口密集地帯へと運ばれる。フィルはこの通商ルートの重要な宿場町となっている。


 そんな東の強権を誇るエリアス二世の下に二人はやってきた。フィルの河港は慌ただしく、船をつけるが否や兵士がやってきたが、その内の一人がリアンを覚えていたので、エリアス二世の住む王宮までは早かった。


 王宮は正面から見上げると壁の様である。正面から見える幾つもの窓にはガラスがはめられている。正面入口の左右には男の石像と兵隊たちがあり、宮殿の影に表情を隠している。夕暮れ時である。正面入口は高さ五メートルを下らない。入るとさらに高い天井を何本もの石柱が支え、石柱にかかる幾本ものろうそくがホールを照らす。その中央で恭しく礼をする白老が一人。

「お久しぶりでございます、リアン様。お待ちしておりました。」

 リアンはこの男の名を覚えていなかったが、エリアス二世に近い執事であることは覚えていた。

「どうも」

「こちらへ」

 荷を他の使用人に預け後を追うと、途中でリアンはアンナの足どりが重いことに気づいた。

「つかまれ」

 左腕を差し出す。アンナは申し訳無さそうに無言でつかまる。つかまる腕にのっていた体重から、相当に疲れていそうであった。然して案内されたのは謁見の間だった。リアンは驚き、その様子を見た執事が言う。

「すぐにここへ連れてくるようにとのことですので」

 リアンはアンナの方を見る。

「大丈夫です」

 腕を離す。

「では。リアン様とアンナ様をお連れしました!」

「入れ!」

 中から声がする。扉が開くと、正面、広間の奥、小さな段の上の椅子に黒い髭の男が座っていた。エリアス二世である。エリアス二世は細身で人の良い顔つきをしている。歳はアンナの父親のよりやや下ほどであろうか。

 客が拝そうとするのを王が止めた。

「いいさ。事情は聞いた。返してやって」


 王のそばにいた使用人が膳を持ってくる。リアンはその上の紙を受け取った。例の、リード伯爵が事情を書き込んだ、勅書である。王のそばには他にも補佐役が立っている。


「しかし君が戻って来てくれて嬉しいよ。……あなたがアンナ嬢だね?父君を知っているよ。謙虚な方だ。……無事であることを願おう。」

「はい……わたくしもエリアス王のことは父から聞き及んでおります。偉大な王だと」

「いや、非才だよ。早く優秀な息子に跡を継がせてしまおうと思っているくらいさ」

 これはエリアス二世の口癖のようなものである。

「さて、前置きを話している場合じゃないね。リアン。優秀な君の想像よりも事態は緊迫している」

「……王子はどこに?」

「……流石だよ。西だ」

 リアンには分かった。港と途中で通った町の様子に違和感があった。そしてあまりにも準備の早い謁見にいやな予感がしていた。

「いつ……!」

「一週間ほど前に帝国から宣戦布告があった。セシルがでたのは三日ほど前だ。アンナ様。そういうわけです。バーゼルの救援には参れません。むしろ我々が窮地に立たされているのです」

「よ、よく分かりませんわ」

「後で説明します」

 リアンが囁く。

「だからリアン、君が来てくれて本当に嬉しいよ。力を貸してくれるね?」

「勿論です。お力になれるかは分かりませんが」

「そんなことはないよ。君がいれば……」

「静かに」

 言葉を遮るリアン。唇に人差し指を当てる。静寂が場を支配する。身じろぎの音さえ響く。時間が止まったようだった。目だけを動かして辺りを見回す。なにもない……部屋に差し込む夕日の朱が不気味に映える。ドアの外で何か音がする気がする……ドアを見る……ドアのそばの衛兵が身構える。リアンは足音も衣擦れの音もたてずにドアのそばに寄り、衛兵に合図をする。ドアは内開きである。左右の衛兵がドアの把手とってに手をかける。合図をする。三、二、一、ドアが開かれると……そこには死体があった。


 誰もが死体に目をとられた。女の悲鳴が聞こえると同時にリアンの首もとに凶刃が迫る。リアンはこれを躱す。凶刃が追ってくるものの、躱してゆくと衛兵二人が下手人を囲む。

「二人いるぞ!」

 リアンが叫ぶ。

 外にいた衛兵は二人。一人では無理だ。言うも虚しく、衛兵の一人が背後から首を掻き切られる。目の前の暗殺者も攻勢をかける。リアンは躱し続ける。リアンは武器を持っていない。やがて相手の目がエリアス二世を向いた瞬間、リアンが相手のナイフを持った手をつかみ腕を有らぬ方向へ曲げる。鈍い音がする。片割れを捕らえた瞬間、首に鋭い痛みがした。

(毒矢だ!)

 もう一人の暗殺者が吹き矢を構えていた。リアンはすぐに矢を抜く。捕らえた片割れが逃れる。外が騒然とし始め、人がやってくる気配がする。二人の下手人が走って逃げてゆく……


「どうしました!」

 やってきた兵士が言う。

「暗殺者だ!向こうへ逃げたぞ!追え!」

 王のそばでずっと剣を構えていた騎士が叫ぶ。

 暗殺者はメイドの姿をした女だった。

(まずい……)

 リアンはその場に伏せ、次第に離れて行く意識に身を任せた。


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 無宗教=無道徳という考えを持つ方は今でもいるようです。日本では考え難いですが……一応、舞台的に「私は無信仰です」なんて声を大にしていったら、社会的に死ぬことは覚えておいて下さい。

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