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(はあ……だがこれで、ようやく意思は統一された。あの様子では夫人は娘に従うだろう)

 このときのリアンはもはや、アンナを担いで逃げるという結論の是非を説いてはいなかった。その結論はつい先日バーゼル伯爵に与えられたままの形をしていたが、ようやく、リアンは完全に素直に受け入れることができた。

 そう思うと、彼は不思議な感覚に襲われた。

(そうだ。俺も最初からこうなることを望んでいたのではないか!)

 もはや、彼はなぜ自分が最初は否定していたのかが分からなかった。彼に気力が戻った。ランプの明かりだけが照らす、暗くて足元も見えぬ廊下を、この決意が揺るがぬうちにと、早足に歩いた。


 バーゼル伯爵は二階の書斎にいた。リアンは伯爵の酔いが覚めていることを願いながらドアを叩いた。返事があってドアを開けると、

「ああ、君か。どうだった。妻が途中から行ったと思うが、娘とはよく話せたかね?ん?」

 陽気にそう言った。

「はい……良く分かり合えたかと」

「そうか!それはよかった!」

「明日の話をしてもよろしいですか」

 伯爵が次を言う前に割り込む。彼は必ずこの場で実のある話をしようと思っていた。

「あ、ああ……」

 伯爵は椅子の上で姿勢を正した。真面目な顔をして立っているリアンは安堵した。

「朝早くに出ると言ったそうですが」

「ああ、そうだ」

 伯爵が肯定する。

「これを……(伯爵は机の上の紙に手を伸ばし、リアンに差し出す)持って行け」

「これは……」

 受け取ると、それはリアンの旅路を保証するエリアス二世の勅書だった。リアンはもう要らないからと伯爵に適当に渡したのだが、伯爵は、なぜリアンが身分証代わりになるそれを捨てるのか分からず、とっておいたのであった。

「此度の事情を書き加えておいた。君と、娘の面倒も見てくれるよう頼んである。それを持って、王都に行ってくれ」

「……」

 しっかり用意していたことが意外だった。

「明日、朝食後すぐに船で出てもらう。」

「船で?」

 彼はてっきり、バーゼルに来たときと同じ様に歩いて行くものと考えていた。だからこそ、帝国軍に追いつかれるのではないかと焦っていた。船で下るとなれば、徒歩とは比べものにならない速さで移動できる。

「そうだ。知人の商人に頼んだのだ」

 伯爵は知人と言ったが、血縁の者であった。他にも、都市には多く伯爵の血縁の者がいる。


 彼らのいる都市のすぐ東を流れるテベレ川を下れば、エリアス王治める王都が在るのは先に触れた通りである。広く緩やかなテベレ川では水運が盛んであり、船で下るというのも当然の発想であった。リアンがこの発想に至らなかったというのは、彼が冷静でなかったことを意味するのかもしれない。彼は、晩餐での伯爵の様子を思い出しながら、伯爵がこれだけ用意していたことに驚いていた。だが実際伯爵はリアンより先にしていたのであるから、当然といえば当然である。


 その後は帝国軍の話題に移っていった。

「軍は後三日で確実にここへ来る」

(……そうか、あれは昨日の出来事か!)

 リアンには不思議と遠い出来事に思えた。

「あれから何か分かったことはありますか」

「率いているのはラキア将軍のようだ」

「ラキア将軍が……ラキア将軍が!?」

「そのようだ」

 ラキア将軍とは現皇帝の重臣である。その勇猛さで知られているが知略も優れていた。

「皇帝では無く?」

 現皇帝は常に最前線で戦うことで有名であった。加えて、バーゼルの重要性を鑑みれば、皇帝自ら兵を率いて来ても何ら不思議ではない。

「皇帝では無い。だがラキア将軍なら交渉にも応じてくれるかもしれん」

「え、ええ。そうでしょう」

(おかしい……皇帝自ら動けば目立つからか?)

 リアンは皇帝が来ていると確信があったようで、予想を外して首を傾げている。


「……明日、私は帝国軍が迫っているという事実を領民みなにおしえようと思う」

 意を決した様子で伯爵が言う。

「二人を逃がした後でだ」

「きっと、間違ってはおりません」

 伯爵は、領民には黙って、自分の娘だけ先に逃がすことを後ろめたく思っているらしかった。

「……うむ」

「おそらく、卿は伯爵である前に一人の親なのでしょうね」

「……そうだな。馬鹿な親よ……」

「……」




「アンナを、よろしく頼むよ」

 伯爵がリアンにそう言ったのは波止場でのことである。アンナは母と何やら話をしていた。

「はい」

「それから、これを」

 大金の入った袋を差し出す。持参金代わりだと察した。

「バーゼル伯爵、私は彼女を妻にする気はありません。彼女はこれから少しだけ広い世界を見て来ます。平和になればここへ……伯爵のもとへ帰ります」

「……そうか」

 そこへ、ひとしきり別れの挨拶をすませたアンナと伯爵夫人が近づいてくる。

「ともかく、これは持って行きなさい」

 遠まわしに辞退しようとしたリアンに大金を押し付け、娘に向き直る。

「ああ、アンナ!」

 伯爵が娘を抱き上げる。

「パパ、実は……」


「あなた。アンナに事情を教えたようですね」

 青ざめる伯爵を後目に、伯爵夫人が毅然とした態度でリアンに話しかける。この時まで伯爵夫妻はアンナに何も事情を伝えていない。

(まずいな……)

 こんな時まで言い争いをしたくはない。

「……あんなに強い子に育っていたとは知りませんでした」

 夫人は相好を崩し、寂しげに、嬉しげに言う。

「……強い?」

 リアンは夫人の態度に呆気に取られたが、次の瞬間にはこの言葉に気を取られていた。

「ええ……事情を知ればもっとかとばかり……」

(ただの勘違いか、あるいはあの後覚悟を決めたのか……)

 少なくともリアンにはアンナは強い娘には思われなかった。

「あなたのおかげだと言っていました」

(俺のおかげ?)

 彼は、何が、どの様に自分のおかげなのか全く分からなかった。

「……娘を頼みます」

(一晩で随分と懐柔されたものだ)

 リアンは反射的にそう思った。だが同時に、昨日は彼に敵意さえ見せたこの女に、心からの親愛と同情を感じていた。

(この特殊な状況が、そう俺に感じさせているに過ぎない)

 そう思いながらも、

「任されました」

 そう答えた。

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