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 リアンは戦争を予期していた。そうなった場合自分がどうするかも定めていた。それこそが彼が死ぬわけにはいかない、生の原動力だった。ではなぜ、彼が開戦の地だと予想したバーゼルに居るかというと、これにはまた別の理由があったが、一つには今開戦するなど思ってもみなかったからである。

 ともかく、彼はまだ死にたくはなかった。故にアンナの発言は彼の痛点を突いた。人との結びつきが生存の最低条件であるこの時代においては、食客が主を見捨てて逃げるなど言語道断であった。

 リアンはバーゼルに当初の予定よりも長居していた。帝国に踏み入れることへの躊躇いが第一であったが、この活気ある街が好きでもあった。バーゼル伯爵は良くしてくれたし、彼も、大金持ちのはずが質実な暮らしをする伯爵を気に入っていた。結果的に、彼はバーゼル伯爵に大恩を感じていた。伯爵に「卿のためなら戦います」とのように言ったのはあながち嘘でもなかった。今ここで死ぬわけにはいかないと思っているが、それが運命なら仕方が無いとも思っていた。それだけに、というのは、本当に都合が良かった。伯爵の恩義に報いつつ、己の願いも叶う。彼が打算で動く人間であったならば、先程も、もっと熱心にアンナを説得したに違いなかった。


「……」

 リアンは黙ってしまった。良いとも悪いとも言えぬから黙るほか無かった。

「……」

 アンナも黙ってしまった。リアンに向けた鋭い剣が彼に刺さり、呆然とそれを見る気分であった。そして次には、なぜこんなことをしてしまったんだろうと後悔するように、自己に意識が集中し始めた。

(ああ!この人も迷っているんだ!パパがあれほどに認めている人がそんな恥知らずのことができるはずもないのに!でも私にもどうしようもない……!せめてパパも直接言ってくれていたら!)


 アンナは、リアンが何も言い返さぬために、彼の葛藤を知った。この間にリアンはアンナに同情してしまった。

(この女は自身の徳のために親をおいて逃げることができないのだ……それでいて分かってもいる。残っても無意味なことを。父の言葉に従うことが何よりの孝行だということも……)


 さらに間があって、リアンが伏せた目を上げると、アンナと目があった。彼女の目はその頬同様濡れていた。リアンも泣きたい気分になったが、とにかく、彼は彼女の手を取り椅子に座らせ、自身も座った。最初のように目を合わせて話すことは互いにできなくなっていた。

「……私は、どうしたらいいですか」

「……私にも分かりません」

 どちらが先に口にしても変わらなかったであろう。


 彼らは何もしなかった。大抵の人は、どちらが正しいか分からなくなったとき、どちらを選ぶこともできなくなるが、彼らも例外ではなかった。道しるべを無くした人間は、ただその流れに身を任せることしかできず、正に彼らがそうであった。つまり、彼らは伯爵の思惑を良しとしなかったのに、逆らうための正義が無かった。ただ、座して裁定を待つばかりであった。二人がこのことをうっすら自覚し始めた頃に、リアンが口を開いた。

「……私は伯爵の想いを尊重します」

 酷い詭弁に思えた。もし彼が第三者でその場に居合わせたらそう指摘したに違いない。おまけに酷い綺麗事にも聞こえた。アンナは怯えたように顔を上げた。どちらにせよ口にされるのを怖れていた。彼は俯いたままであった。何を言われたところで彼女は縋るほか無かった。ほかにどうしようも無かった。もはや彼女には自身の信ずる徳など無かった。


 結局、伯爵の思い通りに進んだ。



 リアンはアンナの荷物をみることにした。女性の荷物をみることに抵抗はあったが、何か、する事が欲しかった。アンナも同じく見えて、自ら荷物を開いて彼に尋ねた。多すぎる荷物は、大半は母に持たされたものだったが、かなり量を減らした。それでもリアンと比ぶべくもなかったが。

 作業中も二人は目を合わせることはなかった。そうせずとも相手の気持ちがわかるような気がした。時折生じる沈黙も自然で、居心地の悪いものでは無くなっていた。しかし、リアンの詭弁の果てに、アンナの依存の末に生まれたこの空間は、やがては腐ってしまいそうな閉塞感を漂わせていた。部屋を照らすランプの明かりがオレンジに揺れていた。



 そうこうしているうちに、伯爵夫人が現れた。二人があまりに長話をしているので、気になっているらしかった。伯爵は行くことを止めたが、夫人は、リアンがアンナの部屋で(これは伯爵の提案であった)アンナと二人きりでいるのが気に食わなかった。

 二人は、二人だけの精神的交流が断たれて残念な気がしたが、陰鬱な空気の離散を喜びもした。


 夫人は二人の間に何かあったことを悟ったが、それが何であるかは分からなかった。アンナの涙の跡はもう消えていたし、一見二人は仲良く荷物を仕分けているだけに見えた。

「どうして荷をほどいているの?」

「リアン様に見てもらっているんです……」

「……こちらは?」

 分けられた荷物の一方を示す。

「いらないものです。ママ」

 夫人は人前で母上と呼ばなかったことを諫めようとしたが、それよりも要らないとはどういうことかを尋ねたかった。

「まあ!どういうことですか?」

 リアンに向かって言う。

「旅には不要なものです」

「不要?あなたにはわからないでしょうが、彼女は貞淑な淑女なのですよ?そしてそうあり続けるために、これらは皆必要なものです!」

「旅には不要です」

 彼は説明することを面倒がった。アンナはリアンの言うことに素直に従ったのに、後から出てきた夫人に口出しされてはたまらなかった。

「まあ!」

 夫人が悲鳴をあげた。”不要な荷物”の中に聖像を見つけのである。

「あなたには信仰が無いのですか!?」

 信仰とは愛であり、信仰が無いとは人ではないということであった。

「いいえ。しかしそれは持っていけません」

 彼もべつに神を否定する気は無い。

「なぜですか!」

「何より重いですし、荷物の中で砕けてしまうかもしれません」

 三十センチはある石の聖像であった。彼は旅路をかなり急ぐつもりだった。遅いと帝国軍に追いつかれるかもしれなかったからだ。

「でも丁寧に持って歩けばそんなことにはならないでしょう!」

「せめてもう少し小さいのにしてくださいよ!」

 彼も忍耐の限界だった。

「いいえ!駄目です!我が家はずっとこれで……」

「ママ!」

 見かねたアンナが口を出す。日頃大人しい娘が声を荒げたことに驚いた伯爵夫人は勢いを失った。

「アンナ……!でも信仰の薄い輩は皆ろくでなしの……」

「ママ!!」

 今度は怒った様に言った。彼女が母親にこのような態度をとったのは初めてだったので、夫人は驚きのあまり口も聞けなくなってしまった。

「その……」

 申し訳無さそうにアンナが口を開く。

「いや……」

 リアンは物憂げに言った。伯爵夫人がリアンを嫌う理由が分からないでもなかった。半分は彼自身、思っていることであった。

「そろそろ失礼します」

 それだけ言ってから彼は退室した。

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