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彼が起きたのは早春の日が十分に登ってからであった。昨夜はその後も云々考え続け、最後には伯爵の言動は全て、目の前の危機に心を惑わした、親(という生き物)の妄言ということになっていた。彼がそれほどに悩んだのは、娘を連れて
これまで彼の朝は使用人と同じほど早く、そのために使用人が彼を起こす習慣は自然、無くなっており、朝食が終わってもやって来ないリアンを、遂には伯爵が召し使いをして呼びにやらせたのであった。
食堂には伯爵しか残っていなかった。そして開口一番、
「考えてくれたか」
と言う。意図的で無いにしろ、リアンの寝坊はバーゼル伯爵を相当に焦らしていたらしい。朝食
「残念ですが……」
伯爵の顔が絶望に染まる。
「頼む!後生だ!」
「卿は私を買いかぶっておられる」
読み上げる様に言う。
「頼む!頼む……!」
すがりつく伯爵。
「私が責任をもって帝国軍と交渉致しますから……」
「そんなことはいい!それよりもアンナだ!あの子さえ無事なら私は……!頼む!頼む!後生だ!!」
親心を理解した上で代案を用意しなかったのは彼の失策であった。結局まともな議論にはならず、リアンはアンナを押し付けられてしまった。リアンの決心と伯爵のそれでは、後者の方が熱量を持っていた。リアンはこういった場合には内心を口にできない性格だったので、伯爵の勢いに圧倒され、言うべきことも言えなかった。その後のアンナとその母の用意の良さから、この件は昨夜の時点で決定事項となっていたことを彼は知った。
夜は正に晩餐であった。あまりに豪華な夕食に彼は驚いた。帝都に住む皇帝でもこれには遠く及ばないとさえ思った。しかし彼がそれよりも驚いたのは、アンナの楽しげな様子であった。それは、客観的に彼我の距離感をとらえていたはずのリアンを混乱させてしまった。
(お前はそれでいいのか?得体も知れぬ相手と……それとも全て親の言いなりか?)
子は親の決める相手と結ばれるものであったから、親の言いなりというのは実際正しい。むしろそれを(明確に非難した積もりはなかったが)批判的にみる彼の方こそ異端である。リアンはこれを自覚していたが、それを思う度に自身の生まれを恨んだ。
アンナはリアンとあまり親しくは無かったが、伯爵が常に彼を誉めては称えるために、彼を、彼女個人の第一印象以上に立派な人間とみなしていた。いずれは親の選ぶ相手と結婚する以上は、その実質的な相手がリアンであったことに安堵しないでもなかったが、まともに義式もとらない、突然の旅立ちであることに驚いていた。
然して、アンナが恐ろしく不安だったのは事実であった。その証拠に彼女は幾度もリアンに、楽しげを装いながら旅について尋ねた。今後のことはリアンが全て上手くやってくれると父に言われていても、生まれてこの方慣れ親しんだ街を出たことがない彼女には、バーゼルを離れることが想像もできなかったし、親元を離れた自分がどうなるのかを考えるのも恐ろしかった。
それでも伯爵と同じ様な感動と喜びを装った。そのせいか彼女は実際に感動もしていたし、喜んでもいた。彼女にとっては、親の喜ぶことに喜び、親の悲しむことに悲しむのが、最善の徳であるのだった。
バーゼル伯爵はひどく上機嫌であった。それがリアンにとっては最も忌々しかった。彼は未だに伯爵を説得する方法を考えていたが、仕舞には旨い食事とその場の空気に流されて、諦めてしまった。
「やあ、本当によかったよ。君が受け入れてくれて。これ以上の喜びはないよ!神に誓っても良い。ああ!そうとも!」
食事中伯爵はこんなことをしきりに言った。リアンは絶え間なく話しかけてくる伯爵に上手く合わせていたが、内心はもっと実のある話をしたかった。いつ出立するのか、とか、今帝国軍はどの辺か、とかそのあたりを聞きたかった。しかし、まるで示し合わせたかのように、それらが話題になることはなかった。何度かリアンは口にしようとしたが、その度に伯爵が新しい口調で喜びを口にするのだった。
使用人たちも厄介であった。彼らは、伯爵家にリアンを含めた四人の手前に座っていたが、リアンとアンナの吉事としか聞かされていないようで、享楽的な空気をつくり出すのに一役買った。彼らにもご馳走が与えられ、伯爵と同様、上機嫌であったのだった。
一方で、伯爵夫人は宴の雰囲気に呑まれなかった。帝国軍が迫っているのを知っていたこともあったが、夫がリアンのどこを見込んで娘を預けようと言うのかが理解できなかったからだ。この件について、昨夜遅く夫妻喧嘩寸前にまでなった。なるほど彼は頭のいい青年であることには違いない。それは彼と話した皆が思うことであった。だが、彼には何もないと夫人は考えた。せめて確固たる身分さえあれば、商人でも良かったのに、彼は各地を当てもなくさまよっているというではないか。そんな男に娘を預ければ、娘はいずれ餓死して死んでしまうと、夫人は本気で思った。でなくとも、まともな暮らしは望めないに違いなかった。仲の深い商人に娘を託す方がよっぽどましだと夫に言った。伯爵は伯爵でリアン以外にはありえないと考えていたので、両者は一歩も退かず、深夜にして怒号が飛び交うところであった。そうはならなかったのは一枚の紙のお陰である。エリアス二世の勅書であった。
エリアス二世は、ウィグネル王国の名君エリアス一世の孫にして、優秀なウィグネル王国の王である。勅書とは、リアンの、ウィグネル王都からバーゼルへの旅路を保証するものである。
ともかく、バーゼル伯爵がこのリアンの身分証明書を引き合いに出したことで、議論は決着した。リアンがウィグネルの王に認められた高貴な身分であることの証明に成功したのだ。リアンが下る南東には王都があるのも強みだった。よってこのときは、夫人は引き下がったが、一度生じた感想はなかなか消えないもので、それどころか、今や彼への人格攻撃にへと昇華していた。夫人は、夫の性格から、覆しようがないと分かっていたので、食事中に直接何か言うことはなかった。しかし、人は己に向いた敵意には敏感であり、彼がこの敵意に気がつかぬはずはなかった。これも、彼が宴を楽しめない一因であった。
宴が終わるとリアンはアンナと二人で話がしたいと言った。当人は困惑したが、伯爵が喜んで勧めた。彼は宴のためにかえって頭が冴えており、唯一、旅について小声で何度も聞いてきたアンナなら、まともに話せると思ったのだった。己から、嫌われていると分かっている相手のもとへ足を運ぶほど、彼は大胆でもなかった。
アンナとは何度か話したことはあったが、二人だけで話すのは初めてであった。二人はアンナの私室にいた。広い部屋には丸テーブルと対の椅子があり、向き合って座った。アンナは頬を染めていた。しかしそれは少女が、この先当てにして生きていく青年を前にして、気恥ずかしがったという程度でしかない。リアンの方は明日以降の予定について考えていた。ここまで二人はなにもしゃべらず、気まずい空気が漂っていた。
「……旅の支度は出来ましたか」
そう切り出した。
「あ、はい。でも、何が必要か分からなくて……見てくださいますか?」
おずおずと尋ねる。
「構いませんが……そもそもいつの出立か御存知ですか」
「明日中のできるだけ早くと父上がおっしゃっていました」
リアンは教えられていないことを恨んだが、ついさっきまでの伯爵の様子を思い出して、伯爵を憎めなかった。
「あの、やっぱりなにかあったのでしょうか」
「なにもお聞きでないのですか?」
「はい……父上がこれからはあなたを愛し生きていくように……と」
頬を染めるアンナの可愛らしさは、この部屋では、リアンにとっては、場違いでしか無かった。
この場合なにも伝えずに送り出そうとした伯爵は責められるべきか否か。そしてあまりにもばかばかしく思ったリアンが、ありのままを話してしまったこと誰が責められようか。いや、それはやはりリアンの過失だったのかもしれない。何にせよ、リアンはこれが祝福すべき結婚などとはかけ離れた事態であることを告げずにはいられなかった。
このときのアンナの狼狽ぶりはいっそ凄惨なものであった。死地に父母を残して一人だけ逃げることを、この娘が了承できるはずがなかった。
(そんな……!?どうしてパパはそんな大切なことを言ってくれなかったのだろう!いえ、それはわかりきったことよ!)
(やっぱり!私を逃がすために!でも私に両親を見捨てることなんてできるはずがないのに!)
(そんなこと従える筈がありませんわ!私はここに残ります!でも残ったところで私はどうするの?私には何もできることなんかないのに!)
(逃げるならママとパパも一緒に……ああ!そんなことできはしないんだ!私がママとパパを捨てては行けないように、ママはパパを捨てては行けないし、パパはこの街を捨てては行けない!)
(でもその上で私には逃げろというの?そんなことできない!私のことを何にもわかってない!ママもパパも目の前のこの人も!誰も私には心があることを知らないんだ!)
(ああ……!だから私には何も言ってはくれなかった、パパは私のことをよくわかっていたから!でもできるはずない!できるはずがない……!)
「覚悟を決めてください。……あなたの両親のように」
落ち着いてから彼が言った。アンナは椅子から崩れ落ちており、泣いていた。彼は突っ立って居るわけにもいかず、膝をついていた。
「そんな……できません……」
「では、一家揃って討ち死にしますか?」
彼は最悪の可能性を口にした。冷淡な言い方だったが、彼が薄情であったのではない。無論そういった面も持ち合わせてはいたが、平生はむしろ、情に厚かった。
ともかく、その時は、アンナを逃すというのが、彼が望んだ展開では無かったのに、彼女を説得しなければいけなくなり、いい加減面倒に思えてきたのだった。あるいは、彼自身通った道を彼女に再び見せつけられ、自身を投影しているようで苛ついたのかもしれない。彼は言ってから後悔したが遅かった。
「あなたはそれでいいのですか!父の世話になっておきながら自分は逃げる算段を立てているだなんて!恥ずかしくないのですか!」
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