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 二人が話し終わる頃には、春先の存外早く沈む日も落ち、窓の外には暗闇が広がっていた。彼らがあらかたの相談を終わらせ、一休みしていたところにノックの音が響く。

「なんだ」

「夕食の仕度が整いました」

 使用人がドア越しに主に言う。

「すぐに行く。……彼らにはまだ何もいっていないが……」

 後半はリアンに向けられたものである。

「では今日はそのままで良いでしょう」


 すぐに晩餐になった。食卓の程々に長い机を四人と召し使い達が囲んだ。平生に反し静かなバーゼル伯爵を妻が訝しむ場面こそあったものの、食卓は平和であった。そしてこの場合旅人であるリアンが喋らされるのであった。彼は平素多弁ではないが、色々と訪ねられた末には多少饒舌にならざるを得なかった。

「それにしても、少し前まではフォークこれすらなかったなんて意外なことです」

「それでは手掴みで食べていたと仰るの?」

 夫人が尋ねる。彼女は町人の出で両親は城下に暮らしている。

「そう驚くことでもないよ。うちも曾祖父の頃はそうだったはずだから」

「ここはそうでもないですが、地方では未だに日に二食だったり、貴族でも手掴みだったりします。まあ、貴族の方はそうそういないですが」

「そのような所にもいらしたことが?」

 アンナが子どものように純粋な瞳を向けて言う。伯爵の一人娘であり、伯爵夫妻がそれなりに年老いてから、ようやく彼女が生まれたときには存命の祖父母共々たいそう喜んだらしい。そのために両親は過保護という程に娘を大事がっている。そしてリアンはことあるごとに彼女の話を聞かされ、大した交流も無いのに、彼女について全く無用なことまで知っていた。


 アンナは、父親の銅色ともいえる赤毛よりも鮮やかな赤い髪をしていた。周囲はこれを母の金髪と関連づけて考えたが、事実がそうであったかは分からない。何よりも少女は人形のように美しかった。肌は陶器のように白く(リアンは赤毛で肌の綺麗な人間は初めてだったので驚いた)完成された美を保ち、それでいて無機質ではなく、あどけない嬉しそうな表情は伸びきったしなやかな肢体にこれ以上ない魅力を与えていた。彼女が笑えば一面に花が咲き、悲しめば太陽さえ涙を流す。声には落ち着きがあり、小声で話すことも多かったが、どこかはつらつとしていた。


 それでも、リアンは彼女のことが苦手であった。というよりも単に気が合わなかった。もとより旅人と深窓の令嬢の気など合うはずもないのである。旅人は地理的、歴史的な事柄を語ったが、アンナにはよく分からなかった。それよりも物語的な冒険譚を期待した。

 彼女もリアンの話に興味を持ちこそすれ、彼個人にはさほどの興味もなかった。彼女は、多くの淑女がそうしたように、自分の身なりに、つまりは相手に自分がどう見えているかを気にしていた。また、どうすれば客人を満足させることができるか、自分を好んでくれるかと考えていた。


 果たして晩餐は昨日とも一昨日とも変わらなかった。一点、リアンは今後の己の身の振る舞いを考えたかったのに、平生の伯爵に代わって、夫人がリアンに会話を振るために、出来なかったことを除いて。



 夕食も終わり、彼が部屋で荷物の整理をしていたところに伯爵が現れた。

「やあ。……いや、このままでいい。」

 彼が椅子を勧めようとするのを押しとどめ話し始める。

「私は決意したよ。君はどうする」

 唐突だったがすぐに何の話かはわかった。

「卿が戦えと言えば戦います」

 正直に言えば彼は明日か明後日にでもバーゼルを去りたいと思っていた。この時の彼には全くこんなところで死ぬ気は全く無かった。

「うむ……では娘を連れて南東へ下って欲しい。娘もお主も仲は良いようであるし、何よりも君にしか頼めんことだ」

 渡りに船であった。が、答えはすぐには出せなかった。何よりも”娘を連れて”のところが含蓄に富み過ぎた。


 伯爵がこのように言ったのは訳がある。帝国軍との交渉が成功しようがしまいが、バーゼルは帝国軍の治めるところになるからである。リアンとの相談によって決まった交渉内容は、主に、都市をあげて軍に協力する代わりに都市の現状の体制と秩序を重んじてもらう、というものであった。これはバーゼルの豊かな経済力を交渉材料としたのであるが、受け入れられるかは微妙であった。帝国側からすれば、武力でもって攻めても数日とかからないからである。加えて、交渉に成功しても、占領後に交渉内容が無視されることもしばしばある。一般に、他国の軍に占領された街では暴力と略奪、強姦がはびこる。伯爵はそれを恐れた。

 それに加えてあの美貌である。リアンはアンナを交渉のカードにすることをそれとなく伯爵に提案していたが、伯爵は何も言わなかった。度し難いと思っていたのか、決めかねていたのかそのときは分からなかった。


「君になら娘を託せる。私は君のことをよく分かっておる」

(嘘だ!この男が俺の何を知っていると言うのだ!)

 彼は思った。伯爵は彼の俯いた様子を見て、

「できるだけ早く返事をくれ。ただ、誰でもいいというわけではない。君だからこそお願いするのだ」

 とだけ言い、去った。


 大きく溜め息を一つつく。

(馬鹿げてるな……)

(あの男は何を言っているんだ……あれが俺の何を知っているんだ……俺が娘を託すにふさわしいとでも思っているのか……)

 娘を託すと言うのは、とりもなおさず彼女の将来を預かることであった。

(俺には何もない、俺には何もないのだ……義務も、信仰も、身分も、愛する者さえも……)

(そうだ、伯爵は娘を愛している。その娘も両親を愛している。親は子を愛し子は親を愛す。そうでなくとも人は誰かを信頼し、頼り、認め、そして愛して生きている……それなのに俺にはそれがない……俺は誰も信用していない……愛してもいない……そんな俺をいったい誰が愛してくてるというのだ……そうと知ってもなお伯爵は愛娘を俺に託すというのだろうか……そんなはずはないのに……あれは何も知らない、知らないだけだ……)

 

 彼がこのように反発したのは、彼に精神的に不安定な面が在ったからと言うべきだろう。

 加えて、彼は人が自分を理解した風に言うのを非常に嫌った。

(俺にも分からん俺自身を、他のやつが分かるはずがない)

 と言う風にであった。そのくせ、思慮は人一倍、優れているのがまた厄介であった。

(あの娘を連れて行くなど実質的な結婚だ。いや、それよりももっとひどい)※

 彼は旅人であったために、彼女を中途半端な身分で連れ回すことになる。夫婦でもない男女が共に旅するなど有り得ないことであった。加えて旅は綺麗事ですまされないことも多い。彼の考えでは、あの娘のすべてに責任を負って旅にでるなどとうてい不可能なことであった。

(こんな、金も身分も無い輩などと結婚すればアンナの身の破滅は免れないだろうに!)

(断ろう。明日一番にでも断ろう)

 彼は決心した。このとき初めて伯爵の言った決意の意味が分かった。


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※ 現代とは異なる貞操観念であることに注意。未婚の男女が同棲するなど倫理にもとる恥知らずな行為である。また、リアン(旅人)とアンナ(貴族)の結婚は貴賤結婚と言い、法的なペナルティが課せられる場合も存在する。これらを踏まえた上で主人公は苦悩しているのである。


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