きのうの夕陽を踏んでいけ
紫鳥コウ
きのうの夕陽を踏んでいけ
40
冷ややかな青色の月の光に眼が灼かれるわけがない
悲しいから泣いているのだ
眼は内がわから痛んでくるのだ
眼球の奥に惑星みたいなものがあって
鏡像となった太陽が静かに廻っているのだ
39
音楽の流れない静寂な夜を抜け出して
きのうの夕陽の方へと駆けていく
譜面を踏んで
音符の足跡を残して
曲をまきもどしていく
38
ダメだ ダメだ
昨日だってロクなことはなかったのだから
駆けて
もう一度駆けて
一夜を越えて
もう一夜を越えて
とにかく逃げてしまえ
37
窓から桜の花びらがひとつ
そらぞらしい風に乗って
彼女のほほに着地をした
あたらしい風が
花びらに勇気を与えて
次の島へと
そして次の島へと
旅をしていく
36
トントン
優子の肩を叩く
なんだ
京子か
35
手紙を開いてみたら
ごつごつとした文字が散らばっていた
怪文書のようにも見えたし
絵日記の一ページにも見えた
優子のからだは春の陽気よりも火照っていった
34
夕陽はいたるところに斜めの線を描いていた
彼はあかね色に照らされた優子に
右手を差し出した
優子は陰に隠れている彼の右手を
握ることができなかった
33
陽が沈むと
優子の陰は
おやすみなさいと
優子の心の中に入って
ねむってしまった
32
こちらへおいで
31
朝陽は庭の池を輝かしている
池の底で泳いでいた錦鯉は
もういない
30
思い出すねえ
ユウちゃんは
雪だるまが溶けてしまったときに
自分も太陽の光に当たっていたら
溶けてしまうって こわがって
家から出なかったね
29
いいのよ
いまはお外がこわいのよね
またお外に出られるまで
おばあちゃんのお部屋にいても
いいのよ
28
石灯ろうに火がついたことは
一度もない
苔が足もとに根を張って
傾いてしまっている
27
泣かなくていいのよ
ユウちゃんは
優しい子だから
泣いてしまうのよね
ひとの気持ちがわかるのね
26
あの夜とおなじように泣いてしまっている
泣かなくていいところへ行きなさい
一夜を越えて
もう一夜を越えて
駆けて
駆けて 駆けて
もっと
もっと もっと
夕陽を踏みなおしていきなさい
25
死にたいと思った
明日の自分さえ想像できないから
24
本に印字される文字になりたい
何色のインクでも
古紙でもいいから
自分は物語を書くひとではない
23
この小さな紙に
進みたい道を三つ書かなければならない
どの道が険しくなくて
はるかに続いていくのか
分かりようがない
22
見るもの見るものがあせてきた
だんだんモノクロになっていく
七色の虹は一色一色減っていく
星さえ 惑星さえ
ひとつもない宇宙に投げ出されているよう
島さえ 陽さえ
目の前にない海に放られたよう
聞こえるもの聞こえるものがうるさくなってきた
どれがほめ言葉で
どれが悪口で
どれが大切なひとの声なのだろう
死んだらどこへ行けるのだろう
どこへも行けないかもしれない
試してみたい気がする
21
ねえ
おばあちゃん
20
錦鯉のいない池
雪をかぶった石灯ろう
ひざの上の猫
仏壇の横に掛け軸
電気ストーブのうめき
まいこの人形
19
ユウちゃんが死んでしまったら
寂しいだけだよ
ユウちゃんの後を追いたくなる
それでいいなら
死んでしまいなさい
死んだら離ればなれになるかもしれないよ
もうこの縁側で
一緒に暖をとれなくなってしまうわ
ユウちゃんが生きてくれるだけで
寂しさをどこかに隠してくれるのに
すやすやと眠れるのに
サンマを食べる気になれるのに
お茶がおいしく感じるのに
晴れの日はお散歩に行けるし
曇りの日も憂うつにならないし
雨の日はみーちゃんを膝の上に乗せて
俳句のひとつでも
作ろうと思えるのに
ユウちゃんが帰ってきたら
嬉しくなるのに
18
ユウちゃん
わがままを言ってごめんね
おばあちゃん
ユウちゃんより先に死にたいわ
17
あの夜とおなじように泣いてしまっている
泣かなくていいところへ行きなさい
一夜を越えて
もう一夜を越えて
駆けて
駆けて 駆けて
もっと
もっと もっと
夕陽を踏みなおしていきなさい
16
ぐらぐらする石の上でも
わたしは大丈夫よ
15
おばあちゃん
見て!
すごいでしょう
14
一目散に逃げていく錦鯉
ゆらゆらと舞い落ちていく銀杏
澄んだ青空に飛ぶあめ色の鳥
その向こうで飛行機雲が描かれていく
13
また泣いてしまった
12
もう赤ちゃんじゃないのに
抱っこ
11
褒めてくれるひとを探していた
ありきたりな自分を
なんでもいいから褒めてくれるひとを
自分も特別な存在のひとつだって
思いたかった
10
褒められなかった
叱られた
9
お願いだから
泣きやんでちょうだい
どうしたらいいのかしら
おばあちゃんは
ユウちゃんが泣いている顔を
見たくないわ
もう三時ね
お菓子を食べようね
そうしたら泣きやんでくれる?
ねえ ユウちゃん?
8
ユウちゃんは笑っていると
かわいいのにねえ
7
あの夜とおなじように泣いてしまっている
泣かなくていいところへ行きなさい
一夜を越えて
もう一夜を越えて
駆けて
駆けて 駆けて
もっと
もっと もっと
夕陽を踏みなおしていきなさい
6
石の塀の向こうに虫網
縁のしたに猫
緑葉の影にうす茶色の蝉の抜け殻
真っ青な空に真珠のような太陽
ポットの中には
たくさんの氷と
いっぱいの麦茶
5
くっきりとした風景
褪せていく記憶
七色の陽の光
十二色のクレヨン
一輪のひまわり
雨は降りかたを忘れてしまった
4
ねえ
おばあちゃん
なんでわたしは
ゆうこっていう
名前なの?
3
優しい子に育ってほしいから
そうつけたのよ
2
わたし
優しい子になれるのかな?
1
ユウちゃんは優しい子になるよ
ううん
もうなっているよ
おばあちゃんの横で
笑ってくれる
ユウちゃん
おばあちゃんは
ユウちゃんがいてくれれば
決して寂しくならないわ
生まれてきてくれてありがとう
ユウちゃん
0
あの夜とおなじように泣いてしまっている
泣かなくていいところへ行きなさい
51
でも
もしかしたら
しばらくは泣いてしまったほうが
いいのかもしれない
泣いているときは
決まって
おばあちゃんがいた
でも
明日
おばあちゃんは
骨になってしまう
そうしたら
もう
泣かないようになるかもしれない
8
ユウちゃんは笑っていると
かわいいのにねえ
52
音楽のない宇宙のたもと
静寂の夜のなかに
おばあちゃんの声が
自分の中の惑星から
聞こえてくる
53
優しい子 笑う子
わたしは 泣く子ではない
それでも
いまだけは泣かせてほしい
まだおばあちゃんは
灼熱に灼かれたあとの
骨ではないのだから
きのうの夕陽を踏んでいけ 紫鳥コウ @Smilitary
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