第22話「由芽のために」

 伊呂波にメールを送ったものの、返事はこなかった。

 その間も、俺は水枕や濡れタオルを代えたりして、由芽の看病をしていた。


「あいつ……こない気か……?」


 ふたりの間にも色々と事情はあるみたいだが、こういうときには協力してくれる奴だと思ったが……。


 と、ドアが開く音がした。そして、ドカドカと乱暴な足音が響く。

 長年一緒に生活していると、そんな音からも伊呂波だとわかる。


 ドアが開いて制服姿の伊呂波が顔を覗かせた。

 相変わらず、不機嫌な表情だ。

 でも、こうして来てくれたことが、素直に嬉しい。


「忙しいところすまんな……メールの通り由芽が倒れた」


 伊呂波は部屋にずかずか入ってくると、苦しそうな由芽を見下ろした。

 その視線は由芽の頭にある一対の角に向けられている。


「伊呂波……」

「…………だから、言ったじゃない。鬼だって」


 確かに、伊呂波の言う通り、由芽は鬼だった。


「あ、あのっ……お、お邪魔します」


 伊呂波に続いて、犬子ちゃんが顔を出す。続いて、


「失礼いたしますわ」


 雉乃もお辞儀をして入ってくる。そして、


「由芽ちゃんの裸が見られると聞いて」


 猿谷は問答無用で部屋の外に追いやった。


「悪いな……みんなに来てもらっちゃったみたいで……」

「い、いえいえっ! 困ったときはお互い様ですからっ。あのっ、プリン買ってきたので、あとで食べさせてあげてくださいっ」


 そう言って、犬子ちゃんはコンビニの袋を俺に差し出す。


「ああ、ありがとう。由芽のやつプリンは好物だから、きっと喜ぶと思う」

「太郎さん、私が調合した風邪薬もよかったら……」


 そう言いながら、雉乃が紙包みに入った粉薬を俺に手渡す。


「調合? 自分で作ったのか……?」

「はい。薬剤師の免許を持っていますから……漢方にも精通しています」


 雉乃の優秀っぷりは半端ないな……。

 しかし、風邪薬じゃどうにもならないだろう。


「ほら、さっさとどいて。そうじゃないと、着替えさせられないでしょ!」


 伊呂波に言われて、俺は部屋を退室することにする。


「来てくれてありがとうな、伊呂波」

「ふんっ!」


 相変わらず、素直じゃない。まぁ、昔からこういう性格だったからな、こいつは。 そう思いながら、ドアを開く。


 やはり、俺にとって、伊呂波は妹としてしか見られない。

 ドアの向こうでは、猿谷が室内を覗いていたであろう中腰の姿勢でいた。


「お前は人間として恥ずかしくないのか?」

「なにを言う桃ノ瀬。お前のようなナチュラルハーレムには僕のようなもてない男の心情など永遠にわからぬものさ!」


 そう言って、ドアの隙間から中を覗こうとする。


「だから、やめい」


 猿谷をドアから引き剥がした。


「これからいいところなのに……!」


 まったく、この変態めが。こいつは過去も現在もブレない。


「おぉっ、由芽ちゃんの白い肌がいよいよ……!」

「だから、覗くなっての!」


 そんなこんなで猿谷とドアの前で攻防を繰り広げているうちに、由芽の着替えは終わったようだ。


「終わったから」


 部屋の中から伊呂波のぶっきらぼうな声が聞こえた。


「ああ、お疲れ様」


 ドアを開けて、俺と猿谷は室内に入る。汗を拭いてもらって、着替えさせてもらった由芽は、さっきよりも穏やかな顔で眠っている。呼吸も、だいぶ楽そうだ。


 ……ただ、頭の角はそのままだ。やっぱり、由芽が鬼ということは曲げようのない事実なのだろうか。俺の視線に気がついて、伊呂波も由芽の頭を見る。


「……本当なら、今すぐトドメを刺すべきなんだけどね」

「ちょ、やめてくれ!」

「次に起きたら、由芽姉ちゃんは完全な鬼になって、襲いかかってくると思う」

「……そうなのか?」

「いつまでも正気を保った鬼でいられる保証はないから」

「それは、低級鬼みたいになるってことか……?」

「物置部屋に積んであった昔の書物を見ると、ね……。この症状だと、そうなる可能性が高い」

「なんとかできないのか!?」


 俺はすがりつくように伊呂波に訊ねる。

 だが、伊呂波は静かに首を振った。


「おそらく、無理」

「そんな……」


 伊呂波の知識を持ってしても、避けられないのか。


「なんとかならないのか!? 由芽を殺すなんて、そんな……」


 そんなこと、耐えられるわけがない。


「わ、わたしもっ……」


 そして、犬子ちゃんも泣きそうな顔で、由芽の寝顔を見つめる。


「由芽さんとは戦いたくないです……」

「私も同じ気持ちですわ。こうなると由芽さんが凶暴な低級鬼にならないことを祈るしかありませんわ」


 雉乃も、複雑な表情で、由芽を見下ろしていた。


「鬼だろうとなんだろうと、美しいものは美しい」


 猿谷だけはある意味、信念が揺るがないようだった。


 そうして、五人で見守っているうちに、時間が過ぎていく。

 このままみんなを引き止めておくのも悪い。


「あとは俺と伊呂波が由芽のそばにいるわ。みんなは帰ってくれ。そろそろ暗くなってきたしな。今日は本当にありがとう」

「はっ、水臭いな、太郎! 僕も由芽ちゃんのそばにいて、あんなことやこんなことをしたい」

「わかったから、さっさと帰れ」


 猿谷を追い出し、犬子ちゃんと雉乃にも帰ってもらう。

 そうすると、部屋の中は急に静かになった。

 伊呂波は無表情で、由芽の角を見ている。


 そこで……由芽が言っていたことを思い出す。

 伊呂波が、義理の妹であり、俺のことを好きだっていうことを――。


 正直、信じられない気持ちだ。俺のことを嫌ってるとしか思えない行動や言動の数々。今までの人生の蓄積を前にして、そうと考えるのは難しい。そもそも、俺と伊呂波は兄妹同士だ。


「ん……」


 そこで、由芽の眉毛がかすかに震えて、声が漏れた。


「由芽っ!? 意識が戻ったのか!?」


 俺は由芽の枕元に近づいて、訊ねる。

 ややあって、由芽は閉じていた瞼をゆっくりと開いた。

 その愛らしい大きな瞳は、こちらに向けられた。


「たろーちゃん……?」

「ああ、そうだ。伊呂波もいるぞ」

「伊呂波ちゃんも……?」


 由芽の瞳が動いて、俺の後ろでそっぽを向いている伊呂波を見たようだった。

 伊呂波は、目を合わせようとしない。


「伊呂波……」


 そんな伊呂波を嗜めようとしたところで、先に由芽が口を開いた。


「……ごめんね、伊呂波ちゃん」


 伊呂波の体がビクッと震える。

 しかし、余計にそっぽを向いて、ぶっきらぼうに答えた。


「……別に。謝られることなんてしてないし」


 久しぶりに伊呂波と由芽が会話するのを聞いた気がする。

 しかし、すぐにふたりの会話は途切れてしまう。

 重苦しい沈黙が、続いた。やがて、


「……たぶん、私はこのまま……鬼になっちゃうと思う」


 由芽は、ぽつりと呟いた。


「なっ!?」


 由芽自身の口からその言葉が出て、俺は動揺してしまう。


「もしそうなったら、お願い……伊呂波ちゃん、私を斬って」

「ッ」

「由芽っ!?」


 伊呂波が息を飲んだのがわかった。俺だって、由芽の言葉に、ひどく驚いていた。

 そして、由芽は、伊呂波の顔をじっと見つめる。


 その瞳は、真剣そのものだった。

 やがて……伊呂波は静かに頷いた。


「……わかった」

「お、おいっ!」


 俺は伊呂波に、思わず声を上げてしまう。

 だが、


「ありがとう、伊呂波ちゃん♪」


 由芽は、本当に嬉しそうに、にっこりと笑った。


「ちょ、ちょっと待て、由芽! そんなことってあるか!?」


 目の前の異常なやりとりに、俺はついていけていなかった。

 落ち着き払った二人を前にして、醜態を晒してしまう。


「そんな、由芽が、鬼になるなんて……。なんとか、ならないのかよ!?」


 由芽は、悲しそうな表情で、俺のことを見つめる。

 そして、


「あはは……冗談だよ。……大丈夫。大丈夫だから……。たろーちゃん、そんな怖い顔しないでよ……」


 そう言いながらも、由芽の瞳には涙が溜まっていた。

 大丈夫なはずがない。

 長年の付き合いで、由芽が無理して笑っていることは、俺にはよくわかった。

 それでも、由芽は俺に手を振った。


「……それじゃ、ばいばい」

「って、待てよ。由芽を放っておけるかよ!」

「あはっ……たろーちゃん、優しいね。……いいの。大丈夫だから……ここのところ、ずっと、たろーちゃんを独占しちゃってたから……今日は伊呂波ちゃんと一緒にいてあげて」

「なにをそんな……」


 それでも踏みとどまろうとする俺の目の前を、伊呂波が横切る。


「……本当に由芽お姉ちゃんを助けたいのなら、やることがあるでしょ? ……物置部屋の中の書物に、なにか書いてあるかもしれない。一度全部読んだけど……見落としがあるかもしれないから。最後まで、手は尽くす」

「伊呂波……」

「伊呂波ちゃん……」

「別に、由芽姉ちゃんのためじゃないから。私が、納得したいだけ!」


 吐き捨てるようにそう言うと、伊呂波はさっさと部屋から出て行ってしまった。

 部屋には、俺と由芽が残される。


「あはは……由芽ちゃん、優しいね……。私、ずっと、太郎ちゃんと伊呂波ちゃんの仲を邪魔していた、恋敵なのに……」


 由芽は泣き笑いの表情を浮かべる。

 辛そうで、同時に嬉しそうな、そんな笑顔だった。


「由芽……」


 逡巡する。伊呂波について行くか、ここに留まるか。

 俺が行ったところで、古文書を読めるわけでないが……。


「早く、伊呂波ちゃんのところに行ってあげて、たろーちゃん」

「……由芽」

「早く」

「いや、俺は……由芽のところにいるよ。独りじゃ心細いだろ」

「だめ。伊呂波ちゃんがかわいそうだよ。今は、伊呂波ちゃんのそばにいてあげて。お願いだから、早く!」


 強い口調で、由芽に繰り返される。

 それは、有無を言わせぬ強さだった。


「……。……わかった。また、すぐに戻ってくるからな。なにかあったら、携帯に連絡してくれ。すぐに飛んでくるから」

「うん」


 後ろ髪引かれる思いを抱きながら、俺は由芽の部屋をあとにした。


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