6.5−3 私たちにできることなら

 その旅籠は、フィールーンが知るどの書物にも記されていない驚きに満ちていた。


「す、すごい……すごいすごい、すごいですーーっ‼︎」


 豊富に蓄えられてきたはずの語彙は完全に撤退してしまったものの、その空色の瞳が曇ることはない。自分達を乗せた空飛ぶ絨毯が行き着いた先が方舟の甲板でなかったことは少々残念だが、この内部の光景の素晴らしさを目にした途端そんな憂いは吹き飛んでしまっていた。


「まさか吹き抜けだなんて……! 舟の形に沿った造りなんですね。解放感があって良いですが、反対側への移動が少々――あっ、あの橋のようなもの、動いてます! そうか、あれで素早く移動することも可能で」

「お客さま。危のうございまする」

「姫様ッ! 危険です」


 今宵何度目になるか分からない警告の声と共に、艶のある朱色の手すりからフィールーンの身体が引き剥がされる。目を瞬かせてハッとすると同時、王女は自分の腕を掴んでいる側付騎士と旅籠の従者に頭を下げた。


「ご、ごめんなさい! 夢中になってしまって」

「いやまあ、気持ちは分かるっすよ。こいつはあっしも、たまげやした……」

「全然違う世界に来たみたいね」


 階下から吹き上げてくる湯けむりに緑髪をなびかせているエルシーと、その足にしがみついて恐々と階下を見下ろすタルトト。その背後に立つ大柄な青年セイルも、「うまそうな匂いがする」と呟いていた。いつもの無表情がわずかに和らいでいることに気づき、フィールーンの心も不思議と軽やかになる。


「はいはい。じっくり回るのはあとにしよっか、若者たち。美女を待たせちゃいけないよ」


 唯一感嘆の声を上げなかった仲間――王女の師匠たる竜アーガントリウスが、細い手をぱんと打ち鳴らす。となりで着物の背を伸ばした女将が、上品な笑みを浮かべて言葉を継いだ。


「フフ。私から少々、皆様にお話ししとうことがございまする。さあ、こちらへ」


 女将は黒い尻尾を有する背をこちらに向けると、磨き上げられた木の床の上を静々と歩き出した。から、ころ、と鳴る不思議な靴音に気付き、フィールーンは前を往く仲間たちの背後からそっと彼女を盗み見る。見慣れぬ平たい靴で、なんと木製のようだ。先端の細い紐に足指を引っ掛けながら歩いているようだが、歩き辛くはないのだろうかと心配になる。


「きっと、並々ならぬ歩行訓練をこなしているんだわ……!」


 女将みちるに案内された先は、船の前方にある大きな部屋だった。横方向へ開閉する扉は、火竜の里でも見かけなかったものだ。なぜ硝子ではなく紙が貼られているのかは気になったが、王女は疼く好奇心を胸に押し留めた。


 先行したアーガントリウスが靴を脱いで部屋に入るのを見、自分達も真似をする。しっとりとした上等な木目の感触を足裏で味わいつつ、各々が好きな場所に腰を下ろした。


「静かだな……飛行中の舟とは思えん。揺れてもいないとは」


 低い天井から提げられたいくつものランプ――これも紙製だったが、中でゆらめいているのは本物の炎ではない気がした――を見上げ、リクスンが感心したように呟いた。たしかに不思議なことに、どの灯りも静止している。


「食っていいのか、これ」


 一同が感動に浸る中、現実的な声が響く。フィールーンが見ると、木こりが皆の中心に横たわる黒檀の長机を指差していた。丸い器の中に、華やかな模様の紙に包まれた物体が小粋に並べられている。


「ええ。茶菓子はお好きにお召し上がりください」

「ち、ちょっと旦那! 待ってくだせえ、そんな高級紙に包まれた菓子だなんて。いってぇどんな値段してやがるか――」

「茶菓子を出すのはこの旅籠の無料待遇サービスのひとつだよ、タルちゃん」

「えっ、タダ!? すげえ、そいつはぜひ頂かねえと!」


 やがて競うように菓子へ手を伸ばしはじめたふたりを置いて、フィールーンたちは向かいに“正座”している女将へと注目した。


「改めまして皆さま、ようこそおいで下さいました。当旅籠は只今、皆さまが目指していらっしゃる“神秘郷”に向けて飛行中です」

「悪いねえ、女将。この時期は大体、反対の方面へ行く予定だったんじゃないの?」

「フフ。竜先生のご希望とあらば、西の果てでも東の果てでも――でございますわ。それに、今回のご宿泊をお願いしたのはこちらなのですし」


 分厚い着物の袖で口元を隠し、女将は嬉しそうに微笑んだ。王女はとなりのエルシーに視線を送ったが、勘の良い彼女もさすがに肩をすくめている。自分達の疑問を汲み、最年長の優男が口を開いた。


「実はね、ちょっと前から女将に打診されてたのよ。旅の足にしてくれて構わないから、ぜひ『ユノハナ』に乗船してほしいってね」

「あ……」


 そういえば、とフィールーンの脳が記憶の書を開く。魔力を乗せた手紙や言葉をやりとりするために用いる魔法、“報せの鳥”――その一種だと思われる不思議な物体を、火竜の里で時折見かけることがあった。今思えばあの魔法はたしかに、従者たちの面を思わせる狐のかたちをしてはいなかったか。


「ほれでおまへはこのふえをほんだのか」

「食べてから喋りなさいよ、木こりくん。でもま、そゆコト。火竜たちを驚かせちゃまずいから、見晴らしのいいウールワナの火口付近で拾ってくれるよう頼んだってわけ」


 となりのリス族の少女と同じくらい頬を膨らませたセイルをたしなめつつ、アーガントリウスは長い髪を背にゆったりと流して続けた。


「なんと天下の旅籠『ユノハナ』にも、経営不振ってモノが迫ってるみたいでねえ。どうもそのピンチを、俺っちたちに救ってほしいみたいなのよ」

「ええーっ!?」


 想像もしていなかった告白に、若者たちが一斉に身を乗り出す。先ほど贅を尽くした旅籠の内部を目にしたばかりだというのに、信じがたい内情だ。


「まあ、大袈裟な。あくまで緩やかに、という話ですのよ。心配なさらずとも、明日舟が墜落するということはございませんわ。フフ」

「あ、当たり前じゃない! そんなの困るわ」

「そうだ。オレが“夜鯨の星くず鍋”を食うまで沈むな」

「お兄ちゃんは黙ってお菓子食べてて」


 長机の隅に置かれていたもうひとつの菓子皿をぐいと兄へ押しやり、エルシーがはきはきと言う。


「それで宿泊代金がわりに、あたしたちに何か頼みたいってこと?」

「察しがいいお嬢さまですわ。竜先生からもお話があったように、お恥ずかしながらこの歴史ある温泉宿は今……なだらかなお客様不足に悩まされておりまするの」


 しゅんと尻尾を垂れた女将が暗い声を落とすと、机の端に肘を置いたままの知恵竜が慰めるように言った。


「女将の接待が悪いわけじゃないよ。でもまぁ、長寿の客ばかりだからねえ。気まぐれなヤツが多いし、飽きっぽいのも共通。数百年間なんにも目新しいものがないとくれば、通い客も段々と減ってくるものよ」

「うう、耳がいとうございますわ……。じゃっから慰めてぇん、竜センセ♡ ――ではなく、ごほん」


 一瞬あの妙な口調になりかけた女将だったが、フィールーンたちが目を丸くするのを見て再び営業用の笑顔を貼りつけて姿勢を正す。


「そのような事情を加味しまして、私たちはついに顧客拡大へと乗り出すことにしましたの」

「も、もしかして……私たちみたいなヒトや獣人族を宿泊客として招くということでしょうか?」

「その通りでございます。お客さまとしてだけでなく、従業員として採用するのも良い刺激になるのではと期待しておりますわ」

「へえ、それは面白いわね。あたしは空飛ぶ仕事場なんてイヤだけど」


 恐々と言うエルシーのとなりで、フィールーンの胸はドキドキと勝手に高鳴った。秘匿されてきた温泉郷が重い扉を開き、新たな風を呼び込もうとしている――その変革の現場に招かれているのだと思うと何やら血が騒ぐのは、王族の性なのかもしれない。


「あの、私たちにできることなら……!」


 想定していた旅工程のままであれば、今頃自分達は“昏き喰らい森”と名高い危険な大森林を進んでいたはずだ。まだ負傷を抱えたままである臣下のことも心配だったので、この旅籠で移動と休養がこなせることは正直喜ばしい。だからこそ、滞在中に何か役に立ちたいと心から思う。


 興奮するフィールーンの手をしっかと握り、女将は輝く笑顔を浮かべた。


「嬉しいお言葉、痛み入りますわ! 私、今日という日に備えて、もう皆様の配役はすっかり考えてございますの」

「は、配役……?」

「まもなく箱を持った従者が参りますので、奥の部屋でめいめいお召し替え下さいませ。御髪についても係を呼んでおりますので、すべてお任せをば」

「着替えって」


 予想外に強く促され、フィールーンと仲間たちは心地よい床から腰を上げた。奥にある戸口がスッと引かれ、やはり揃いの面をつけた従者たちが入室してくる。その細腕には上等な大箱の姿があった。


「あ、あの……?」


 そのうちのひとりが迷いなくこちらに向かい、薄桃色の箱を差し出す。同じように色とりどりの箱を受け取った仲間たちと共に、王女は小部屋へと流されていった。





「ひゃううん♡ ああ、なんちうめんこさだっちゃ! わっちの予想以上やき!」

「みちるさん。ええと……」


 フィールーンは顔を赤くしつつ、感激している様子の女将を見つめる。結局個室で従者たちにあれよあれよと長い布地の服を着付けられ、黒い髪までしっかりと結い上げられてしまっていた。濃い牡丹色の布を太い帯で締めただけの服は一見動き辛そうだったが、最後に長い白紐でしゅるしゅると袖をまとめられると非常に快適な心地となって驚いたものだ。


「とても綺麗な衣装ですが、これは一体……?」

「フフフ! 今にお分かりになりまする」


 どうやら女将のように見目を重視する着物というより、活動に適したものに思える。くるくると回りながら自分の腰に巻き付いた帯を検分していると、次いで着替え終えたらしい仲間の静かな声が耳を打った。


「……着替えたか。フィールーン」

「セイルさん!?」


 声の出どころに、見慣れた木こりの姿はなかった。立派な体躯を持つ青年を今包んでいるのは、フィールーンとは正反対の色をした着物だ。彼の蒼い髪よりもさらに深い蒼。男性用の仕様なのか帯は太くはないが、着物の裾は大胆に引き上げられまとめられているらしい。いつもは隠されている逞しい脚の露出に反射的に目を逸らすと、ふと不思議な既視感に襲われた。


「あれ、もしかして私たちの服って……?」

「ああ。“おそろ”のようだと、テオが」

「おそろ?」

「古い竜語だろう。意味はわからん」


 そう、自分達の服は男女の違いはあれ、どうも同じ目的で織られたもののように思えるのだ。肩口から背中をまわって袖をまとめる白紐も、腰から下にしっかりと巻かれた前垂れ――というものらしい――も、暗い金糸を編み込んだ揃いのものにしか見えない。


「あーれま、可愛い“新入りちゃん”たちじゃないの。俺っち、ぜひ接待してほしいわあ」

「んっふふー、あっしもでやんすねえ。ほらそこのデカい君、もっと茶菓子を持ってきたまえよッス」

「先生! タルトトさんも」


 続いて従者と共に現れたのは知恵竜と商人だ。こちらは自分達とはがらりと印象が変わる着物をまとっていた。控えめな模様が散らされた白地のゆったりとした布を、これまた小洒落た柄の紐で締めている。こちらにも男女で多少の違いはあるようだが、肩にふわりと羽織っている赤茶色の大きな着物は共通のものだった。


「わあ! お二人とも、とっても似合ってます」

「……オレたちと全然違うが」

「そりゃそーでしょ。お前とフィルは“従業員スタッフ”で、俺っちたちは“お客様ゲスト”なんだからさ」

「!?」


 さらりと返ってきた答えに驚く間もなく、最後の仲間たち――リクスンとエルシーが、勢いよく奥の間から飛び出してくる。ふたりとも師匠たちの言葉を借りるならば“お客さま”の格好をしていたが、なぜか顔を赤くして動揺していた。


「ふざけるなッ!! なんだ、その“設定”は! なぜ俺が彼女と――」

「バカ言わないで! なんでよりによって、あたしとこの人が――」


 キッと眼光を強め、騎士と少女は互いを指差して叫ぶ。その仕草はいつも通りぴたりと揃っていたが、フィールーンの瞳はわなわなと震えるもう片方の手に吸い寄せられた。



「“夫婦”にならねばならんのだ!?」

「“夫婦”にならなきゃなんないのよ!?」



 いまだ包帯が巻かれた男の手と、上気してうっすらと桜色に染まっている少女の手。呆然とする王女が見つめたその先で、ふたりの薬指にぴたりと嵌った“おそろ”の指輪が、勝ち誇ったように輝いていたのだった。



***


あとがき的近況ノート(浴衣設定画つき)

https://kakuyomu.jp/users/fumitobun/news/16817330652514159451

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