6−24 ただそれだけが

『……』


 冷たい霧の海にいる。先ほどまでずいぶんと、それこそ肌が焦げそうなほど熱い場所に立っていた気がするというのに。


『どこだ、ここは』


 霧の向こうに溜まっている闇をぼんやりと眺め、青年――リクスンは呟いた。己の声は反響することなく、静かに霧の中へと吸い込まれていく。そもそもどこから声を出したのかも不思議なほど、肉体の感覚がない。目線を下げれば見慣れた身体が目に入るものの、借り物だと感じるほどにその存在は薄弱だった。


『俺は……』


 自分が騎士で、王国に仕えていたことは憶えている。そして大事な主君を助けるため、不思議な木こり兄妹たちと共に旅に出たことも。なのに誰一人として、その名を思い出すことができなかった。


 このまま己という存在が霧に呑まれてしまう気がし、青年は身震いした。


『とにかく……行かなければ』

『どこへ行こうというのです』

『!』


 近くで上がったその声に視線を巡らせるが、声の主は見当たらない。使い込まれたグリーヴに、腹を空かせた猫のような霧がまとわりつく。


『貴方がどんな人間なのか、教えてさしあげましょうか』


 穏やかなのにどこか無機質なその声に合わせ、リクスンの前方にある霧がゆらめいた。黒々とした景色が浮かび上がってくる――目を細めた騎士は、すぐにその身体を硬直させた。


『あれは』


 夕暮れの空気に混じって漂う煤。数え切れぬほどの質素な墓標。焼けただれて傾いた家屋の柱に引っかかって揺れているのは、袖を通す者を失った衣服だ。


『……っ』


 すべての営みが絶えたはずの村から、たしかに視線を感じる。思わず顔を背けたが、その複数の目はじっとリクスンを見つめているのがわかった。


“にせもの騎士!”

『!』


 突如響いた子供の声に、騎士はハッとして霧の先を見た。そこに立っていたのは、見習い騎士の制服を着た数人の子供たちだ。どの目にも隠す気のない憎しみの光が爛々と灯っている。


“どこから来たのか知らないけど、ずるいぞ!”

“そうだそうだ。きっと隊長に、ヒーキしてもらってるんだ”


 ちがう、と叫ぶ前に子供たちはツンと顔を背け、霧の暗がりへと走り去ってしまった。子供の戯言がなぜこれほど胸に刺さるのだろう。リクスンは空虚な感覚が広がる胸、それを包む騎士服の襟をぐしゃりと握りしめた。


『俺は……!』


 自分はたしかに他人に劣らぬ努力と研鑽を積み、この居場所を勝ち取ったはずだ。義兄は贔屓などしなかった。仮にも義弟である自分に向けられた剣は、いつも厳しさに満ちていた。誰よりも高い壁を前に剣を振り続けることの厳しさが、文句ばかりを垂れている者たちに分かるはずがない――。


 だというのに今は、この赤い騎士服が恐ろしかった。


『ようやく気づきましたか? そう。あなたがやっているのは、ただの騎士ごっこです』

『な……!』

『主君のために奔走しているかに見えて、それらは実は無力だった己へのあがないでしかない。過去の汚点を消し去るための慰め。ああ、なんて気持ちの悪い自己陶酔なのでしょうね?』

『止め、ろ――ッ!?』


 相変わらず姿を現さない声の主に噛み付いた瞬間、がくんと身体が傾く。足元を見た騎士は戦慄した。暗い色の土から飛び出したヒトの手が、すがるように足首を掴んでいるのだ。


 焼けただれて皮膚を失った、赤黒い手。全身を駆け上がる恐怖に反し、リクスンはその細い手を振り解けないと悟った――そうする資格が、自分にはない。


『どんなに努力しようと高潔になろうと、過去は消えてくれたりしませんよ。ひとり生き永らえた貴方を、村人たちは土の下から睨んでいるでしょうね。どうしてお前だけが、と』

『くっ……!』

『ああ、そうそう。貴方の奥で、先ほどこんな記憶も見つけましたよ』


 次に聞こえてきたのは、固い石床を打つ慌ただしい靴音だった。死者による拘束を振り解けないまま、リクスンは馴染み深いその音がするほうへ目を向ける。


“姫さま――姫さまッ!!”

“リクスン、悪いがどいてくれ。今は一刻を争う”


 立派なグリーヴを履いた長い足を動かして先を急いでいるのは、自分が義兄と慕う男。その腕が抱えているのは、血まみれのドレスをまとった少女。二人の横で青ざめた顔をして叫んでいるのは、駆け出し騎士であった頃のリクスンだった。


“どうしてこんなことに! 義兄上、なにがあったのです”

“竜の賢者夫妻の研究室でお倒れになっていた”

“たしか、テオギス殿は遺跡研究へ出られているはず。ル、ルナニーナ殿は”

“……亡くなった”

“そんな”


 義兄の暗い声に少年は琥珀色の目を見開く。全身の力が抜け出てしまいそうになった当時の衝撃を思い出し、感覚がないはずの手が震える。


“おれが……おれが、お側にいれば”

“お前のせいではない。すべて、私の責任だ”


 自分の頭を撫でようと伸ばされてきた義兄の手が、ぴたりと宙で固まる。グローブが血まみれだと気づいたからだろう。手を引いた彼は同じ色の液体に染められたドレスに包まれた少女を抱え直し、廊下の先を見据えた。


“医務室へ向かう。お前は侍女長アッサラを呼んできてくれるか”


 蒼いマントを引き連れ、広い背が去っていく。絨毯の上に立ち尽くした少年騎士は、言い知れぬ不安に押しつぶされそうになっていた。


『……』


 汚れていてもよかった。大きなその手でいつものようにくしゃくしゃと頭を撫で、何も心配することはないと言ってほしかったのに。


 そしてその心配は――すぐに竜のツノと鱗となり、この世で最も大切な主君を覆った。


『!』


 霧が渦巻いて長廊下が消え去る。舞台の幕が上がるようにして割れたその霧の奥から飛んできたのは、少女の絶叫だった。


“いやあああーーーーッ! ルナ、ルナぁっ!!”

“姫さまッ! 落ちついてください!”

“ごっ、ごめんなさい、ごめんなさい。わたしの、わたしのせいで”


 ガチャガチャと冷たい音を立て堅牢な鉄柵に縋っているのは、白と黒の髪を持つ少女だ。乳白色のツノと鱗に身体を侵食されており、片目には不安定な黄金の輝きが宿っている。みずからの姿と力が恐ろしいのか、その柔肌にはいくつもの引っ掻き傷があった。


“リクスン……リン……っ!”

“はい、姫さま。ここにいます。牢の前に”

“どっ、どうしてわたしは、あんなことをしてしまったの? ルナを、こ、ころすつもり、なんて”

“わかっています。あなたがそんなことをするはずがない。なにかの事故です”

“なにも思いだせないの。ルナのお部屋に、お茶をしにいっただけ……ほんとうです。でもそのほんとうがなにかも、わからなくて”


 例の夜に味わった恐怖が蘇ったのだろう、幼い王女は混乱を極めていた。細い腕に手を這わせ、鱗を剥ぎ取ろうとするかのように爪を立てる。リクスンはたまらなくなり、牢の中へ手を差し入れてその腕を掴んだ。


“……ぐッ!!”


 鋭く伸びた人外の爪が、少年の腕に深々と刺さる。そのまま短い傷を数本刻んだ後、王女は驚いてリクスンを見上げた。


“は、はなしてください!”

“はなしませんッ! これ以上あなたが傷つくのを、見ていられない”

“いやっ!!”


 まだら模様の頭と同時に、少女がぶんと腕を振る。細腕に反しその力はすさまじく、リクスンは牢の外へと容易く押し出されて尻餅をついた。


 肩で息をしている王女が、震え声で告げる。


“だ、大臣がいっていました。わたしは――ばけものに、なってしまったって”

“えっ?”

“……竜人”

“!”


 この世界で最も古く、最も悪名高い種族の名。絵本で見た邪悪な挿絵を思い出し、石床の上でリクスンは青ざめた。彼女はこの先、あのような化け物に変貌していくというのか。この聡明で優しく、天真爛漫な王女が――?


“おなじ種族は、今はもう、どこにもいないんです。だっ、だから、このツノもウロコも、どうしようもないって……!”

“姫さま。おれは”

“ちかよらないで!”


 腰を上げた自分を見、怯えるように少女は牢の暗がりへと退がった。囚人としての扱いではないため、牢の中の絨毯や寝台は清潔なものが設てある。それでも子供には侘しいその場所の隅で、王女は震える腕を掻き抱いた。


“あなたのことも――こ、ころしてしまう”

“……”


 呆然とし、力無く鉄柵を握る少年騎士。彼の頭の中をめぐり、そしてついに口にはできなかった無力な言葉の数々が思い出された。彼女の側付騎士となる道を思いついたのはこれよりもずいぶんと後のことだが、この時の深い絶望感は忘れられない。


『私が見たところ、貴方はあの無力な少年と何も変わっていませんよ』

『……』

『肝心な時に力を振るえない。そうして貴方は、大切なものを二度も失った』


 いまだ地中に引き込もうと足にまとわりつく死者の手。腕に新たな傷を作り出しながら泣き伏す少女。そしてそれらが重苦しい霧によって巻き上げられていくと、静かに歩み出てきたのは長い黒髪を持つ異形姿の青年だった。


『貴様……』


 紺青の鱗に覆われた肩が易々と担いでいるのは、とてもヒトには扱いきれないだろう巨大な戦斧。力を象徴するような大きな翼や尻尾を揺らめかせ、仲間であるはずの男はリクスンへ不敵な笑みを投げた。


『もうてめェの出る幕はねえよ。城でもどこでも帰んな、騎士サマ』

『!』


 いつもの自分ならば、このような挑発的な言葉を聞けばすぐに身体が動いていたはずである。それでもリクスンはその場に立ち尽くしていた。


 寒い――まるで身体の中に、この霧が入り込んできたかのように。


『反論しないのですか? いつもの勢いはどうしました』

『……俺、は』


 姿なき声にそう煽られてもなお、騎士の足は地面に縫い止められたままだ。面白がるように、そしてわざとらしく慰めるように声がささやく。


『ああ、落ち込むことはありませんよ。彼の竜人としての圧倒的な強さの数々は、その目でよく見てきたでしょう? 彼は紛れもなく化け物です。そして、貴方の主君も』

『違うッ! 彼女は――』


 聞き捨てならない言葉に、ようやく頭に血が送られようとするのを感じた。しかし霧の中から突き出てきた女のごとき細い手が、リクスンの顎を強引に掴み上げる。


 見開かれた視界の中央。霧の合間に浮かんだ妖しい目が金色に輝いた。


『いいえ、理解しているはずです。自分の力は、彼女を守るに足りないと』

『止め、ろ……!』

『自分より相応しき力を持つ者が現れたことを、貴方はとうに知っている。そもそもこの旅路は、貴方ごときヒトが足を踏み入れる戦いではなかったのだとも』

『やめろッ!!』


 叫ぶに等しい大声を出して頭を振ると、顎を拘束していた指も消えた。霧の中から響いてくる声はより低さを増し、リクスンの頭の中へ入り込んでくる。


『屈辱に思うならば今、得た力を示すのです』

『力……?』

『ええ。貴方が新しく勝ち得た力。それを以て、彼よりも貴方に価値があると証明してみせるのです。何よりも大事なのは力。ただそれだけが、この世の真理』


 霧の一部がぼうと明けの色に染まる。いつの間にか自分のかたわらに出現していた見事な宝剣を見、騎士は少しの違和感を覚えた。これは長く使ってきた愛剣ではない。つい最近入手したものだったはずだ。


『……』


 どうやってと考えを巡らせたところで、誰かと一緒に赤い洞穴を進んでいた場面を思い出す。くるくると明るい笑みが浮かび、時に鮮烈な言葉を発する、形の良い口元。自分を導くように揺れる、若葉色の美しい髪。


 それでも仲間や主君と同じく、その名が出てこなかった。


『眼前の敵を薙ぎ払いなさい、リクスン・ライトグレン。でなければ王女にとってこの先、貴方は“不要なもの”となるでしょう』

『……はい』



 すべての懐かしい顔が消え去ると同時、騎士は得物の柄に手をかけた。


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