5−30 全てを終わらせる道が

 漆黒の空に浮かぶ球体を見上げたフィールーンはひとり、緊張した声を漏らす。


「もう、あんなに月が」


 牢となっていた建物を脱出し、近くの雑木林に飛び込んでからしばらく経つ。黒い木々の隙間から見え隠れする月の位置を見るに、今はもう真夜中のようだ。


「セイルさん、アガト先生……タルトトさん」


 首の細い戒めに触れる。これを断ち切り、先に屋敷から脱した仲間たちは今頃どうしているだろうか。星空を背にそびえ立つ屋敷は不気味に静まり返っており、まだ戦闘が始まっている様子はない。


「わっ」


 数年放置されていたらしい林道は歩きづらく、フィールーンは何度も木の根に足を取られていた。いつもならばすぐに手を伸ばしてくれる側付も今はおらず、王女は無様に地に膝をつく。


「す、すみません。あの、ムクファ様……私たちは、どこへ?」


 情けない謝罪に振り向いたのは、明るい半透明の身体を持つ案内人、ムクファだ。彼女はフィールーンの様子を見て、すっと細い手を伸ばした。


『……』


 今の身体ではその行為が成立しないことに気づいたのだろう。エルフは長い耳をわずかに下げ、悲しそうな顔をして手をスカートの前に戻した。自力で立ち上がったフィールーンを確認すると、ムクファはとある方向を指差す。


「ここは……正面のお庭、ですね」


 見覚えのある広々としたその庭を見、フィールーンはささやいた。中央に敷かれた石畳を全員で歩いたのが、ずいぶん前のことに思える。明かりのひとつもない庭には、やはり放置によって荒れ果てた草花の影が悲しく揺れているのみであった。


「おい! お前」

「ッ!?」


 近くで上がった厳しい声に、フィールーンは心臓ごと動きを停止した。しかし見つかったのは自分ではなく、庭園の噴水の陰にいた男だったらしい。どちらも黒服だ。


「バカ、こんなところで何してやがんだ。集合の合図を見なかったのか?」

「そうなのか!? すまん、見逃した」

「人質のひとりが逃げたらしい。化け物になる女のほうだ」


 的確だが失礼な言い様にフィールーンが眉を寄せていると、手下が硬い口調で続ける。


「夫人がたいそうご立腹でな。残りの人質は自分の目の届く場所に置いとくってんで、屋敷に連れていったところだ」

「!」


 不穏な報告を耳にし、茂みの中のフィールーンはひとり青ざめた。弱っている側付と少女の姿を思い出すと、心配にぎゅっと胃が痛む。


「了解した。オレたちは?」

「オルヴァ様んとこに集合だ。闘技場が半壊する時、何人かの“景品”も逃げ出した」

「なんだって!? あいつらを飼ってる穴蔵には、結界があったんじゃ」

「それを維持する魔術具が、崩落で運悪く潰されちまったんだと。だがまだ相当数が屋敷の中だ。きっと逃げた奴らは、仲間を解放しにくるだろうってよ」


 男は屈強そうな顔に一抹の不安を浮かべ、寒々とした庭をそろりと見回した。


「お前、幸運ラッキーだったな。すでに単独行動してた見張りが何人か“景品”闘士にやられてる。あの獣どもはオレたちも恨んでる……絶対にひとりで対処するなとの仰せだ」

「ひっ――わ、わかった。早く行こう」


 身震いし、男たちはうなずきあって足早に屋敷へと戻っていった。庭が静けさを取り戻したことを確認し、フィールーンはそっと茂みから身を乗り出す。


「リン……エルシーさん」


 最後の切り札となった2人から、夫人はもう目を離さないだろう。屋敷の護りが完成する前に仲間を助けに走ったほうが良いのではないか、という考えが頭をよぎる。


『……』

「ムクファ様」


 自分の考えを察したのか、屋敷の元令嬢が気遣わしげな顔でこちらを見つめていた。彼女の案内を無視し、このまま本陣へ向かうことは可能だろう。しかし、それで良いのか――。


“帰りたいだけなんだッ! 仕方ないんだ!”

“忘れるわけ……ねェだろが……!”


 地下の闘技場で戦わされていた獣人たち。それだけではない、きっと屋敷の至る所にまだ囚われている者たちがいるはずだ。その者たちには目を瞑り、自分の仲間だけを救い出すことが正しいのだろうか。


「私たちだけ助かっても、また」


 自分がサルーダスの街から父に要請を出し、騎士隊が派遣されるまでには時間がかかる。その間に夫人は屋敷を棄てるか、あるいは徹底的なを図るだろう。そして、どこかの地で悲劇は繰り返される――。


 自分にしては珍しく滑らかな声でもって、王女は半透明の案内人に訊ねた。


「……貴女様についていけば、全てを終わらせる道が見つかりますか?」

『!』


 ムクファは驚いた顔で自分を見下ろしていたが、やがて胸の前に手を添えて一礼した。気高い了承の意を受け、フィールーンもまたしっかりとうなずきを返す。


「お願いします」





 光の粒をまとう案内人が導いたのは、庭園の半分を埋め尽くす“迷路”であった。


「すごい。こんなに作り込まれた生垣、はじめて見ました」


 ヒトが肩車をした程度では乗り越えられない高さの生垣が、複雑に折れながら延々と道を作っている。葉はすでに色褪せているがまだみっちりと絡み合って壁を成しており、フィールーンはあっという間に方向感覚を失ってしまっていた。


「ムクファ様……。きっと、よくここで」


 幾度か見かけた突き当たりに入らずに済んでいるのはもちろん、前方を往く案内人のお陰だ。ロングスカートの裾を軽やかになびかせ、令嬢は迷いなく迷路を進んでいく。時折こちらに振り返る横顔は、まるでいたずらに心を躍らせる少女のようだった――その身体が、透けてさえいなければ。


 どのくらい進んだかも分からなくなった頃、唐突にひらけた場所へと転がり出る。


「あ、あれ……? 行き止まり」


 枯れ落ちた花々に囲まれ、その中央に据えられているのはひとつの木箱であった。絵本などによく出てくる“宝箱”を模したもので、よく見れば樹皮の模様をつけた金属でできている。


「ここが、最終地点でしょうか」


 宝箱は石畳と接合されており、持ち運ぶのは無理そうだった。もちろん先の到達者――おそらくは、屋敷にとって歓迎できない者たち――によって無理に外されたらしい錆びた錠前が、そばに虚しく転がっている。


 懐かしそうに微笑むムクファに促され、フィールーンは屈んで宝箱の蓋を開けた。


「これ……!」


 宝箱には鉄のプレートが一枚だけ納められていた。子供の彫った字で、『ゴールおめでとう!』とだけ記してある。ここにたどり着いたという証なのだろうが、宝箱を開けた者は価値を見出さずに放置して帰ったようだ。


「これ、じゃない……?」


 しかしムクファが見せたいのは別のものらしい。彼女が何度も指差すのは、宝箱の背面部だ。フィールーンは目を皿にして観察し――やがて、箱の縁に沿って何かの言語が掘られていることに気づいた。


「――あっ! これ、古代エルフ語ですね」


 知識のない者が見れば、ただの模様だと思ったかもしれない。それほど複雑な形で綴られた文字を、王女は目を細めて読みあげた。


『“花の王冠をいただきし根は骨となり、其の心は土に眠る”』


 書物で学んだのみで発音には自信がなかったが、ムクファが小さく音のしない拍手を送ったのを見てフィールーンも微笑んだ。その瞬間、ガコンと音を立てて何かが動いた気配を感じる。


「宝箱が!?」


 弾かれたように少し位置がずれた置き物――その下からなんと、赤茶けた扉が現れたのだった。苦労して置き物をさらに退かし、フィールーンは扉の取手に手を差し入れる。先ほどの言葉が鍵の役割だったのだろう、簡単に開いた。


「ここは……!」


 細い螺旋状の階段を下った先にあったのは、小さな部屋だ。作業場といってもいいほどに物が詰め込まれた空間で、年月を経た紙や書物の香りで満たされていた。部屋の奥、書物の山の向こうには書き物用の机がある。


「?」


 明かりはとなりに浮かぶムクファ頼りだったが、その光がちらちらと不安定に揺らいだ。フィールーンが驚いて見上げると、彼女は透明な目からぽろぽろと真珠のような涙をこぼしていた。


「ムクファ様!? どっ、どうなさって……あ、ここ、入ってはいけな――」

『……』


 狼狽するフィールーンにひとつ頭を振って否定し、令嬢は部屋の奥を見た。王女は緊張の高まりを感じつつ、軋む床をそっと踏んで進む。


 モノであふれていながらも几帳面な管理を受けていたのか、部屋の床には何が置かれていなかった。だというのに、旅用ブーツの先がこつりとなにか軽いものに衝突する。


 うす闇の中に浮かび上がる、ひとつの白。いびつに砕けたそのかけらたちを目で追ったフィールーンは、口元を押さえてその場で凍りついた。


「ッ!!」


 血痕らしき染みが残る机の前で、横ざまに倒れた椅子。かつてそこに座っていたのだろう人間は、倒れたまま無残に朽ち果てていた。倒れた際に砕けた白い骨だけが、本で見た砂浜のように床を満たしている。


「こ、このお方は……!? それに、何を書いて」


 ようやく骸から引き剥がした視線が向かった先は、この者が最期に書き記したらしい机上の書簡。紙は相当に上等なものなのか風化が少なく、まだはっきりと読める。それよりもやはり目を引くのは、机のあちこちを汚す黒々とした染み――血痕だ。


「一体、なにが……」


 同じ染みは壁や周りの書物にも飛び散り、壮絶な出血があったことを想起させる。よく見れば、床に横たわるドレスにも同じ染みが大きく広がっていた。その合間に見覚えのある刺繍を発見したフィールーンは、恐る恐る同行者を見上げる。


「ムクファ様……なの、ですか」


 言い切るまでに、ずいぶんと時間がかかった。令嬢は静かにうなずき、やはり寂しそうな笑顔を浮かべる。自分のことはいいとばかりに胸に手を添え、彼女は机上の書簡を指差した。


 フィールーンは震える手で、乾き切った羽ペンを退かす。そっと書簡を持ち上げ、眩さを取り戻した案内人の明かりの元で読み入った。


「こ、これは……!」

 

 内容を読み進めるに従い、心臓が逸る。彼女の伝えたかったことを理解すると同時に、王女の瞳からも温かいものがあふれ出た。


「ムクファ様! わ、私――」

『――こだ。開けろ』

「っ!」


 頭上から落ちてきたのは、くぐもった話し声。フィールーンは身体を強張らせて口をつぐむが、遅かったらしい。自分が降りてきた階段の上から、数人の男らしき声が聞こえた。秘密の入り口が見つかってしまったのだ。



「そんな……!」



 物言わぬ骸のそばにへたり込み、王女は書簡を守るように胸に抱いた。

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