3−4 それじゃあ良い旅をね
「っひゃ!?」
「おうや、ごめんなさいねえ。おどろかせてしまって……」
飛び出しそうになった心臓を鎮め、フィールーンはしわがれた声の主を探した。
数秒してようやく荷車の側に佇んでいる老婆の姿を認める。
「あっ、あ……い、いえ! ここ、こちらこそす、すみませんっ!」
腰が曲がった老婆は痩せ細り、子供ほどの背丈しかない。こちらを見上げるのが辛そうだと気づき、フィールーンは座席から転がるように降りた。
「あらあら、慌てないでいいんだよ」
「は……はい」
陽に焼けた顔の老婆は、抜けた歯を見せて微笑む。付近の幹に負けないほどのシワが刻まれた目元は穏やかで、見知らぬ者相手と緊張していたフィールーンの肩から力が抜ける。
「あ、あの……何か、御用でしょうか」
落ち着かない心地でそう尋ねる。堂々と顔を晒してはいるが、自分が人前に出ていたのはずっと幼い頃だ。老齢であれ自分が王女だと気づくはずがない――そう思いながらも、無意識のうちに手が黒髪を隠すように動く。
「いい色だねえ。最近では、あんまり見かけなくなったよ」
「そ、そう、ですか……」
「黒い髪は、潜在魔力が高い者の特徴なんだってねえ。あたしゃこの歳になっても結局、魔術のひとつも覚えやしなかったよ」
昔を懐かしむようにひとりうなずいている老婆に、フィールーンもつられてうなずく。気の利いた返しが思い浮かばなかったからだ。
2日前に立ち寄った街では、側付や仲間たちが会話を担ってくれた。木こり兄妹を除けば、自らが城外の民と話すのはこれが初めてのことである。
「たいそうな用ってわけじゃないんだよ。ただ少し、食糧を分けてもらいたくてねえ」
「えっ……!」
「次の町まで、少し心許なくなっちまってねえ……。ほら2人ともこんな具合で、獣を狩る元気もないからね。干し肉やパンがあれば、買い取らせてもらいたいんだ」
2人と言われ、フィールーンは老婆が指差した方角を見る。
「せ、セイルさん」
「そちらもか」
木こりの青年と並んでこちらに歩いてくるのは、老婆と同じく腰の曲がった老人だった。彼女の夫だろう。
「……この爺さんが、食糧を買わせてくれと」
「は、はい……。でも、タルトトさんにき、聞いてみないと、ですよね」
「ああ。どれほどの余裕があるのか、オレたちには分からない」
群青色の髪をがしがしと掻き、木こりは困ったように目を逸らせた。
交渉の場に、人付き合いが苦手な彼と自分しか居合わせなかったとは運が悪い。
「あの……す、すこし、待っていてくれますか? 仲間に、確認してから」
「気にしないでおくれ。手を煩わせるつもりはないんだよ」
老夫婦が背負っている荷袋は、ほとんど何も入っていないかのように軽そうだった。
自分が空腹であることも忘れ、フィールーンは力んで請け負う。
「い、いえ! た、たぶん、少しはお力になれるかと!」
「……おい、フィル」
青年の声が低くなったことに気づくも、すでに心に芽生えた温情を無視することはできなかった。
「わ、分けることが困難であれば、森から少し果物でも、と、採ってきて――!」
「違う。テオが……」
「ああ――もう大丈夫みたいさね。悪かったね、引き留めちまって」
「えっ?」
老婆がどこかテキパキとした口調になったことに気づき、フィールーンは振り返った。いつの間にかその小さな姿は荷車の上にあり、曲がっていたはずの背もぴんと伸びていた。
ゆったりと荷物に背を預けた老婆は、ヒヒッと気味の悪い声を響かせて笑う。
「あ、あの……?」
事態が呑み込めないでいる王女の背を、緊迫した声が貫いた。
「そいつを逃すな!」
「いいや、逃げさせてもらうさ。ほらよ!」
「わ――きゃあっ!?」
前方から飛んできた荷袋が胸を直撃し、フィールーンは仰け反った。寝具が入っている袋だったらしく、老婆が放り投げたとは信じがたいほどの重量がある。
尻餅をつく覚悟を決めた瞬間、後ろから伸びてきた逞しい手が肩を支えてくれた。
「せ、セイルさん!」
「……くそ。やられた」
「えっ」
苦々しく呟いた青年が睨んでいるのは、大股で走り去る老夫婦の背中。
その前を駆けていくのは、揃いの黒いスカーフをなびかせた3人の若者――そして全員の背中に、見覚えのある旅荷が背負われていた。
「ひゃは、間抜けなヤツら! きっと田舎者よ」
「いいから走れよ、バカ。ばーちゃんにどやされっぞ」
「おれ、でっかい肉がたべたいなあ!」
「腹一杯食えるさ。そうしたきゃ、さっさとズラかろうぜ」
孫らしき若者たちと同じく、勝ち誇った老婆の声が青空に響き渡る。
「手は煩わせないって言っただろう? なんたって、勝手にぜーんぶ“貰って”いっちまうんだからねえ! あっははは!」
「そっ、そんな――!?」
「今度から人気のない場所で話しかけてきたヤツらには気をつけるんだねえ、お人好しちゃんたち。それじゃあ良い旅をね!」
見事な捨て台詞を吐き、物盗りたちは木立の影に飛び込んでいった。それも1人ずつ違う方角へ向かっている。
「……ッ」
誰がより貴重な荷を持っているのか判断がつかなかったのか、背後の青年も動けずにいるようだった。そうこうしている間に、全員の足音が野原から去っていく。
「う、うそ……」
残されたのは哀れな呟きと重い寝具の袋――そして空っぽになった荷馬車だけであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます