第3章 さんざんで素敵な冒険
3−1 お前に、その気があるなら
木立の間に、美しい毛並みが見え隠れしている。
無駄なく引き締まった四肢に、濁りのない瞳。艶のある栗色の身体にはまだ縄張り争いの傷あとなどもなく、全身が若々しい躍動感に溢れていた。
長い首を優雅に下げて茂みの実を食むその姿を、一言で表すなら――
「か、かわいいです」
「美味そうだ」
相反する所感を述べた男女は、巨木の陰で思わず顔を見合わせた。
「お、美味しそう……ですか?」
頭上に広がる昼空と同じ色の目をした女――王女フィールーンは、長身の連れを見上げてささやく。
「で、“デーモンディア”は、歴とした魔獣で……」
「魔獣だろうが何だろうが、あいつは普通の鹿とほぼ同じ味だ」
「もっ、もう食べたことが!?」
驚きと好奇心から身を乗り出すが、森に慣れた連れ――木こりの青年セイルは、無表情のまま人差し指を口の前に立てる。意味は訊かずとも分かった。
「すす、すみません」
「……まだ逃げていない。あいつは親離れしたばかりのようだな……警戒が薄い」
平坦な口調で青年は分析し、背後の幹と同じ色をした瞳を細める。逞しい腕を音もなく上げ、短く指示を下した。
「よし。構えろ」
「はっ、はい!」
青年の言葉に、フィールーンは慌てて背にある“得物”へと手を伸ばす。しかし固定具からうまく外せず、結局は手伝ってもらう羽目になり赤面した。
「え、エルシーさんの弓……」
美しい曲線をした長弓と、手作りだという軽い矢。それらは城の弓兵が扱う物とも、フィールーンが図鑑で見た物とも違う、不思議な形をしていた。
持ち主である少女の自信に満ちた笑顔を思い出しつつ、王女は心配そうに言った。
「本当に私なんかに、あ、扱えるんでしょうか……?」
少女の兄である青年はちらとフィールーンを見遣り、静かに告げる。
「そういう加護を宿したと言っていた。当たるだろう――お前に、その気があるなら」
「……!」
彼はこちらの度胸を試しているのではない。事実を言っているだけだ。
この狩りに出かける直前のこと。精霊と深い繋がりをもつエルシーが、少しの間だけ彼らの力を借りれるよう計らってくれたのである。
“でもね、目を瞑っていても当たるってものじゃないのよ。きちんと森の恵みを頂く覚悟が決まった時にだけ当たるの。だから、自分がすることをちゃんと見て”
弓と矢筒をフィールーンの背に固定してくれた少女はそう言っていた。あくまで矢を放つための腕力や、目標に命中させる技量を補助してくれるだけのものなのだと。
その証拠に、これまで3度放ってきた矢はすべて無駄になっていた。
「す、すみません、セイルさん……。矢が、もうこの1本しか」
「いい。あの一頭を仕留めることができたら、夕食には事足りる」
具体的なその計画を耳にし、フィールーンはごくりと唾を呑む。
空腹からではない――これから自分がその“材料”を調達せねばならないという重圧がもたらす緊張からであった。
「私、が……あの魔獣を」
野生動物よりも強い力と魔力を持ち、時にはヒトに牙を剝くこともある生物、“魔獣”。
正直に言って、フィールーンは魔獣が嫌いではなかった。
何度も読み返した図鑑に描かれていた彼らの姿は雄々しく立派で、中には見惚れるような美しい姿の存在さえあったからだ。
まだこちらに気付いていない、若い獣。
自分たちの都合でその命を狩り――そして食らう。
「急所でなくてもいい、とりあえず当てろ。その後はオレが行く」
「はっ、はい……」
木こりが狩猟用のナイフを構えるのを見、フィールーンも矢をつがえる。
教えられた通りの構えをとれているか不安になりセイルを見ると、こくりとうなずいてくれた。なんとか形にはなっているようだ。
「……」
しなやかな弦を引き絞り、獲物に狙いを定める。
心臓が激しく脈打ち、そして如実な戸惑いとなってその矢尻を震わせた。
「……代わるか?」
「えっ!?」
予想外の申し出に、フィールーンは思わず弦を緩めた。見ると、精悍な木こりの顔にはどこか気まずそうな色が浮かんでいる。
「オレは弓が苦手だが、精霊の力があれば当てられるかもしれない。お前が仕留めたことにすればいい」
「そ、そんな……!」
「怖いんだろう」
「っ!」
短くも的確な指摘に、ぎくりと肩が強張った。視線が泳ぎ、まだのんびりと木の苔を漁っている魔獣に行き着く。
「それ、は……」
怖くないわけがない。
竜人になり暴れた時でさえ、死者など出したことがなかった――それなのに今、自らの意思であの獣を殺さねばならないのだから。
「い……いい、です。やります」
「こうなったのには、オレにも責任がある」
「いいえ。わ、私が――!」
自分がしでかした“大失態”。
それを思い返したフィールーンは、唇を真横に結んでふたたび得物を持ち上げた。
「み、皆さんの“お夕食”は必ず――私が、調達してみせます!」
覚悟を込めて冷たい弓を握ると、励ますように精霊の光が耳元に舞った。
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