2−14 良い子にしてるんだぞ
「あいつは……!?」
なんの気配もなく頭上に現れた女、その正体はもう訊かずとも分かる――竜人だ。
燃えるような赤い鱗を有する竜人は、きちんと着込んだひだ付きのドレスを煤風にはためかせ、ふうと息をついた。
「
「じゃ、じゃあ言えよ……なまえ」
鱗と同じ色をした唇が歪み、女はセイルの意見をぴしゃりと棄却する。
「お前に教える名などありません」
次いで女は、空中で長い脚を組んだ。セイルは思わず目を大きくする――その右脚は隙間なく鱗に覆われた竜のもの、左脚は色白で艶かしい女のものであったからだ。
「サリーン……君は、サリーン・ミネガーじゃないか!?」
「あら、覚えていて下さったのね賢者さま。光栄ですわ」
テオギスの驚いた声に、竜人女――サリーンは恭しく会釈してみせる。
「だれだ、テオ」
「かつて城にいた侍女だ。姿をくらませたのは、数年前になる……亡き王妃の部屋から、髪飾りを盗んでね」
「フン。あのような地味な女よりも、私の赤毛に飾られるほうがこの子も幸せというもの」
「!」
滝のように背に落ちる見事な赤毛。その上部に、たしかに質の良い髪飾りが煌めいている。恥じる様子もない女に、セイルは顔をしかめた。
サリーンは長く赤い爪を顎に添え、わざとらしく小首を傾げる。
「ところでこの辺りで、私と似たような見目の者たちを見かけてはおりませんこと?」
「残念だが……君の仲間たちなら、“早めの休暇”をとった」
「へえ……? 上司である私に、断りなくとは。悲劇ですわ」
先ほどと同じ文句を落とすと、女は細長い瞳孔を広場に点在する黒い塊へと向ける。
「まあ“成りたて”共は、どうしても血の気が多くなりがちですものね。けれど単純な思考が、思わぬ成果を生み出したことは事実でしょう。喜ばしいですわ」
「成果……だって?」
「ええ。行方知れずとなっていた“竜の賢者”――テオギス・ヴァンロード。あなたの長い首は、このサリーンが頂いて帰るとしましょう」
「!」
「奥方のような“白の血”ではなく残念ですが、良い手土産になります!」
その宣言を落として数秒と経たず、女はセイルたちめがけて急降下をはじめた。身を硬くしたセイルのそばから、すかさず静かな声が上がる。
「僕から……離れないで」
その言葉に少年がうなずくと同時に、竜自身をも覆う巨大な防壁が展開される。
分厚い光の壁の向こうでサリーンは身を翻し、ヒトの脚でトンと軽やかに防壁に触れてみせる。
「ふうん。これが名高き賢者さまの防護魔法。ただ――」
サリーンが振りかぶった竜の脚が壁を叩くと、ぴしりと音を立てて魔法に亀裂が走った。壁の破片が内側へと剥がれ落ちたことに驚いたセイルだったが、ガラスのようなそれらは光の粒となって消えた。
「ずいぶんと可愛らしい薄さね。もしかして、お疲れなのかしら?」
「サリーン……!」
魔法の行使が傷への負担となっているのか、呻くテオギスの声には荒い息が混ざっている。青銀の瞳が宿す魔力の輝きも弱くなっているように見え、セイルは息を呑んだ。
「まあ頑張りなさいな。じゃないと、そこの子供にも死んでもらうことになるもの」
「この子は……関係、ない……!」
「そうはいきません。まだ“あの御方”は、竜人たちの存在を明るみに出すことはお考えでないの。ですから目撃者は、すべからく排除しなければ」
残忍な笑みを浮かべ、サリーンはどこか陶酔したような心地を見せる。
「私はその辺に転がっている単細胞共とは違ってよ。より竜人に適した人材……選ばれたヒトなの。侍女なんてものに費やした時間だって、できれば取り返したいくらい」
襲撃者は徐々に暗い表情になり――突如、沸き立った湯のように激昂した。
「そうだッ、馬鹿にしやがって!!」
「!」
「なにが王国だ、平和の象徴だッ! 生温い仲良しごっこなんて、こちとら願い下げなんだよ!」
「あ、あいつ……!?」
「自然界と同じ、力があるヤツが頂点さ! だからアタシは、アンタ等なんかよりずっとずっと価値があるんだッ!!」
がん、がんと硬質な音を立てて蹴りを叩き込むサリーン。その度に壁の亀裂が大きくなり、落ちてくる破片の数が増していく。
「く……ッ」
「テオギス!」
竜の苦しそうな様子にセイルは歯噛みした。さらに悪いことに、せっかく持参した“武器”は広場の入り口付近に突き刺さったままである。
少年は自分の迂闊さを呪い、守られているだけの自分に腹を立てた。
「殺してやる! アタシを馬鹿にしたヤツら、みんなッ!!」
このまま
タタタ、と軽い靴音が魔法の壁上部を渡っていく。
セイルが声を上げるよりも早く、その人物は飛び立つようにして宙へ。
「――それは困るな、勇ましい美人さん」
穏やかな口調とは裏腹に、その人物が放った痛烈な蹴りがサリーンの背中を直撃する。
「ぐっ、うぁッ!?」
自分たち“獲物”に夢中になっていたらしい女は頭上からの攻撃に対処できず、
「ふー。起きがけの運動にしちゃ、ちとキツいな……」
舞い上がる土埃が収まると、追って着地した人物もゆらりと立ち上がる。
セイルは光の壁に駆け寄って手をつき、その広い背中に叫んだ。
「父さん!!」
「セイル。そいつの言うことをよく聞いて、少しの間……良い子にしてるんだぞ」
「え……?」
父ダーニルは腰を折り、地面から血の滴る剣を取り上げる。
セイルはその光景にふと違和感を感じた――あの得物は、あれほど新鮮な血にまみれていただろうか?
「ダン! 退がってくれ。あの竜人は、先ほどまでの奴らより……」
「分かってるって、賢者殿……」
「!」
ぎゅ、と聴き慣れた音がセイルの耳に届いた。見ると父は、森でよく使う荒縄を手にぐるぐると巻きつけている。
縄の下にあるその大きな手が握り込んでいるのは、愛剣の柄だった。
「父さん……?」
ダーニルが大きく息を吐くと、彼の周りを漂う土煙が揺らめいた。
前方にある地面の上でゆっくりと立ち上がろうとする怒気に満ちた影を見据え、低い声を出す。
「テオギス――その魔法、何があっても解くんじゃないぞ」
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