08:夜明色、あるいは黄昏色
ヴェネレの杖の星焔が、森を漂う闇を照らす。空の端はまだわずかに明るかったものの、森は暗闇に満ちていた。
そういえば、と猟師はかつて見た絵本を思い出した。
「星焔って……実際は普通の炎とそんなに変わらないんだな」
あの絵本の中では、『星焔灯』というのは、髪も瞳も、そして星焔も色が薄かった。
ヴェネレの星焔は、ルビーやガーネット、それからトパーズが溶けて液体になったかのような鮮やかな星焔だった。だが。
「いや、普通の星焔は、白かったり銀色だったりするよ?」
ヴェネレはそう言う。えっ、と猟師が彼の星焔を指させば、彼は笑った。
「僕の星焔はね、特別なんだ」
「特別……?」
「簡単に言うと、普通の星焔よりも、力があってね」
ヴェネレは、猟師にあわせてくれているのか、宙を歩かずに地面をぺたぺたと歩いていた。軽く杖を振るえば、星焔が尾を引く。
「『闇蛇』なら普通の星焔でも昇華できる。でも『闇竜』は……僕の星焔みたいに強いものじゃないと、できないんだよ」
それは初耳で、猟師は目を丸くした。『星焔灯』なら、誰しも『闇蛇』や『闇竜』を払えると思っていたが、そういうわけではなかったらしい。
しかしそれにしても。
「……あんた、大丈夫なのか? いくらその炎に『闇竜』をどうにかできる力があるって言っても……前、手こずってたじゃないか」
それで援護に撃って、驚いた『闇竜』の尾に払われて、彼は落ちてきたのだ。
「あれは不意打ちを食らったのー。そもそも、あの時は僕だって、夕方にまさか『闇竜』が出てくるなんて思ってなかったんだ」
少し不満げに、ヴェネレは上目遣いで猟師を見つめた。
「言っておくけどね、おじさん。僕、結構強いんだよ。本当はあんな『闇竜』、さくっと倒せるんだよ。おじさんと熊の死闘に乱入してきた時だって……あれ、本当はチャンスだったんだ。でも熊もいるし、熊にどうもこだわっているおじさんがどう動くかわからなかったから、ひとまず撤退するしかなかったんだ」
彼はそう続けた。
「でも今日はおじさん、危ないときはちゃんと危ないって思ってくれそうだし、僕だって何かあったとき、ちゃんとおじさんを守れる自信があるからね」
それで今日は同行を許したらしかった。
ふと、ヴェネレは宙を歩き出した。木々の緑の隙間を抜けて、森の上に立つ。どこまでも広がる夜空を見上げて、そして森も見下ろして。
「それにしても、『闇竜』、どこにいるんだろうねぇ……見つければあとはちゃちゃっとやっつけちゃうだけなのに……いるにはいるみたいなんだよね、森のところどころ、命を奪われて枯れてるから」
『闇竜』は命を奪う――『闇竜』にはまれて枯れた木々を、猟師も昼間、見ていた。また『灰嵐』のように命を奪われた動物の死体も、ここ数日、いくつか見た。
そこで猟師は嫌な予感を覚えた。
「まさか村の方に……」
しかし。
「――もしかすると、僕達って、一緒にいると、運気が上がるのかもね、おじさん。水浴びしてる時に、熊にも出会えたし、『闇竜』にも出会えたしさ」
花弁のようにヴェネレが降りてきた。そしてある方向を指さしたのだった。
村のある方ではなかった。
「もうびっくり。あっちの方に、大きな影が飛んでいくのが見えた――間違いなく『闇竜』だよ」
あっちの方――木々の向こうの闇を、猟師は見つめる。それで思い出した。
「ああ、もしかして、洞窟に隠れてたのか……?」
「洞窟? そんなのあるの? 早く言ってよおじさん。僕が『闇竜』を見つけられなかったのって、きっとあいつ、そこに隠れたからだよ……」
そしてヴェネレは顎に手を当てる。
「……もしかしてあいつ、僕がいるから、夕方に出て、夜が更ける前に帰ってた? それなら見つけられなくて納得だよ……それだけじゃなくて……昼にも行動してたかもね。熊を襲ったの、昼だったし……」
銀細工を思わせる細い身体から、力が抜けるのを猟師は見た。
「まあ何はともあれ、おじさんに何もなくてよかったよ」
――洞窟に潜んでいるとわかれば、猟師はそこまでヴェネレを案内した。猟師にとって、この森については、歩いたことのない場所の方が少なかった。
夜の闇が濃くなっていく。しばらく進んだところで、その洞窟が見えてきた。斜面に掘られた、大きめの穴だった。
二人は決して、すぐに穴には近づかなかった。
「洞窟って言っても、深いものじゃない……なんていうか、抉れてできたようなもんでな」
木の影に隠れ様子を伺いつつ、猟師は説明する。時々、ここで雨宿りをしたり、ねぐらにしたりする動物がいる――そういう、穏やかな場所だったのだ。だから「『闇竜』がいそうなところは」と聞かれて、思いつかなかった。
「……いまいるのかな、暗くてよく見えないや」
ぐい、とヴェネレは木の影から身を乗り出す。彼は少し険しい顔をしていた。
「おじさん……僕見てくるからさ。そこで隠れててよ、『闇竜』がいたら危ないからさ」
そう言って彼は、するりと洞窟の前へと進んでいった。警戒しているのだろうか、杖の星焔が、わずかに小さくなる。
その次の瞬間だった。
洞窟から、漆黒の炎が噴き出した。暗黒は華奢なヴェネレを呑み込もうとする。
思わず猟師は声を上げそうになったものの。
――ヴェネレは慌てることなく、杖を正面に掲げた。赤橙の星焔が壁のように広がり、波のように襲いかかってきた漆黒と競り合いを始める。
杖の上部で灯っている時には、小さかった星焔。あの小ささからは想像できないほど、いま、ヴェネレの杖からは星焔が溢れ出ていた。
眩しい光景に猟師は目を細めながらも見つめ続けた。やがて赤橙の炎が、黒い炎をじわじわと圧していくように包み込んで、小さくしていって。
そして一気に、漆黒は赤橙に呑まれ染まった。ヴェネレは威力を落とすことなく、そのまま洞窟の内部まで星焔を滑らし、満たしていく。
だが、その赤橙の中を突き抜けて。
――影を煮詰めて作ったかのような漆黒の身体が、ヴェネレを宙に跳ね上げたのだった。
星焔が消え失せる。手放してしまった杖は地面に転がる。けれどもヴェネレは、くるりと身を捻れば、宙を蹴って体勢を戻した。そして落としてしまった杖を見下ろすが『闇竜』が咆哮を轟かせ、ヴェネレへ羽ばたく。
幸い、ヴェネレは宙を転がるようにして『闇竜』の噛みつきを避けたが、いま彼が不利であることは、猟師にも一目瞭然だった。
「おい! ちくしょう!」
猟銃を構えて、ダン、ダン、と猟師は発砲する。しかし『闇竜』に銃弾は意味をなさない。そしてもはや驚かすこともできず、猟師は装填していた弾の全てを使い切っていた。
ヴェネレは依然として、まるで風に舞う木の葉のように『闇竜』の攻撃を避け続けていた。噛みつきをすれすれで避けたり、煽られるかのようにして黒い炎から逃れたり。踊っているかのようだったが、鋭い瞳は地面に転がる杖を見ていて、拾う機会を伺っている。
銃弾を装填しようとしたところで、猟師は銃を放り投げて走り出した。
何故ならヴェネレの杖は、猟師の数歩先に落ちていたのだから。
「――受け取れぇっ!」
猟師は杖を拾えば――身体を回すようにぶんと上空に投げた。くるくると回りながら杖は空へ上がる。しかしそこに迫ってくるのは『闇竜』の吐いた黒い炎。
その黒い炎に、燃やされてしまう前に。
「ありがとう、おじさん」
滑り込むようにしてヴェネレが杖を握れば、光が爆発した。
ヴェネレの星焔が大きく燃え上がる。迫ってきていた黒い炎をかき消し、そのまま『闇竜』をも包み込む。『闇竜』の悲鳴すらも、赤橙の星焔は燃やし尽くす。
『闇竜』が地面に墜落しても、ヴェネレは星焔の威力を弱めなかった。星焔を出し続けながら、彼は猟師の隣に降りてくる。
星焔というのは、決して熱くはない。しかし目が乾きそうなほどの輝きに、それでも猟師が光の中の『闇竜』に目を凝らしていると、漆黒の身体が縮んでいくのが見えた。
昇華されているのだ。けれどもそれは、段々と見覚えのある形になってきて。
「――人……?」
信じられずに猟師はやっと瞬きをした。燃え盛る星焔の中で『闇竜』が人の形になったのだ。
「――そうだよ」
ヴエネレは頷く。ようやく星焔の威力を弱めて。
「そうだよ……おじさん」
星焔の威力が消えて、光の中にあった影が色付いてくる。はっきりとした輪郭を得てくる。
――一人の少女が、そこに横たわっていた。
その髪色、瞳。間違いなく『星焔灯』のようだった。素足も黒い。しかし黒いのは素足だけではなく、彼女の首から下の身体、全てが黒色に染まっていた。
「――悪意や穢れを溜め過ぎた星がなるのは『闇蛇』。その『闇蛇』が『星焔灯』を取り込むと……『闇竜』になる」
ヴェネレは地面を歩いて、少女の傍らに立った。ヴェネレよりも年下であろう、髪も服もぼろぼろの少女は、ぼんやりとヴェネレを見上げる。だからヴェネレは微笑んで。
「こんばんは。気分はどうだい?」
少女はヴェネレの杖、そこで燃える星焔を見つめていた。
「……『夜明色』」
か細い声で、彼女は口にする。するとヴェネレは。
「僕としては『黄昏色』って呼ばれたいかな……だって僕は、いまから君を殺さなくちゃいけないんだから」
夜明けなんて、綺麗なものを与えに来たわけじゃないんだ。
彼はそう、淡々と言う。淡々と。
杖の赤橙が、ごう、と音を立て燃え上がる。少女を燃やすのだと猟師は察して、すぐに走り出そうとした。また同時にぼろぼろの少女も恐怖にだろう、ぼろぼろと涙をこぼし始めたが。
「仕方がないだろう? もう、元に戻れないんだ」
少し刺々しく響く、ヴェネレの声。横たわる少女の周りでは、影が蠢いていた。ゆっくりと少女を包もうとしていた。
「放っておけばまた『闇竜』になる……だからこの星焔で、燃やし尽くすしかないんだよ」
女神のように美しい少年が杖を振るえば。
特別だという、金や銀に輝く赤橙の星焔が少女を包んだ。彼女が瞬きをすれば、涙は蒸発することなく静かに地面へ流れる。
燃える中、少女の片手が宙を彷徨った。足と同じように真っ黒になってしまった、小さな手。
その手を、ヴェネレは握った。指を絡ませて、しっかりと握りしめて。
やがて、ありがとう、と少女の唇が動いた。
「――お休み」
最後に、ヴェネレの優しい囁きが聞こえて。
――星焔の光は消え去った。辺りに、もとのような暗い夜が戻ってくる。
ヴェネレの前には、もう『闇竜』も、『星焔灯』の少女の姿もなかった。
しばらくの間、ヴェネレは動かなかった。だから猟師も動けず、何と声をかけていいのかわからないまま。
ただ、猟師は。
――ヴェネレが何一つ、面白くないと思っていることだけを感じていた。
「――つまらない仕事だよね、本当に」
ようやく振り返った彼はそう言っていた。口調は飄々としていて、薄い笑みを浮かべている。しかし彼は猟師の前で立ち止まることもなく、隣を通り過ぎれば静かにその場から離れていったのだった。
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