06:ヴェネレの仕事

 日が沈めば夜になる。

 かつては月しかなかった夜。数多の星は、女神が眠りにつく際に作り出したという。

 人の願いを叶える力があると言われる、星。しかしその輝きは永遠ではない。

 だから『星焔灯』がいる。

 ――まるで見えない階段を上るかのように、ヴェネレは紺色の夜を駆け上がっていた。手には赤橙の星焔を燃え上がらせた杖を握っている。その炎は金や銀に輝き靡く。

 森は遙か彼方。地平線の向こう側も見えそうなほどの高さまで、ヴェネレは昇っていく。黒に見えるほど濃い紺色の素足で何もないところを踏み進んでいく。

 やがて、いくつもの光の球が浮かぶ領域へ彼は入った。

 そこは星の海。ヴェネレはそれ以上空を昇るのをやめて、あたりを見回しながら、星と星の間を歩き始めた。

 そして見つけた――輝くことなく浮いているガラス玉を。

 ガラス玉の前まで来れば、ヴェネレは片手でその冷たい表面を撫でた。ガラス玉の中には、黒い靄がわずかばかり入っていて、撫でれば揺れる。

 ヴェネレはガラス玉から少し離れると、星焔を戴いた杖をふわりと振った。

 上部の煌めく炎が、蔓のように伸びた。ガラス玉に巻きついたかと思えば、激しく燃え上がる。中にある黒い影も燃え上がり、徐々に消えていくのをヴェネレは見つめていた。

 やがて炎も勢いを失って消えていく。しかしそうして再び現れたガラス玉の中には、小さな光が一つ、宿っていた。周りの星に比べて、どこか赤みを帯びたその光は徐々に大きくなっていく。

 果てに、輝きを取り戻した星が一つ、夜空で輝いた。

 見届けて、ヴェネレは長い溜息を吐いた。しかし顔を上げれば、光を失った星をまた見つける――ところどころにある。どれも中には黒い靄が入っていて、量はまちまちだった。少ないのもあれば、半分以上抱え込んでいるものもある。中には満杯になったものもあり、ぐるりと蠢いたかと思えば、幼くも奇妙に光る小さな双眸がヴェネレを捉える。

「……僕のやること、こっちがメインじゃないんだけどなぁ」

 そう言葉を漏らしながらも、ヴェネレは杖を振った。噴き出す星焔が、輝きを失った星を順々に包んでいく。黒い影を昇華し、次々に光を宿らせていく。

「――ま、こっちの仕事の方が好きではあるかな」

 星を再び輝かせることと、『闇竜』を退治すること。どちらを優先するべきかと言われると、自分の場合は『闇竜』退治の方を優先するべきかもしれない、とヴェネレは考える。

 だが『闇竜』を探す前に、少しは夜空の星の手入れもするべきだろう。やってよかったと、ある程度の数の星を蘇らせたところで、また溜息を吐く――なかなか、ひどい有様だった。

 と、その時、地上の方で小さな光が見えた気がして、ヴェネレは真下に目を凝らした。

 まるで地上から見る星のような光がそこにあった。天の川――ではなく星の輝きを映した川のほとりに、ぽつんとある。

 滑るようにヴェネレが降りてみれば。

「――何してるの、おじさん」

 ランタンを持った猟師がいた。けれども返事はない。彼は黙って、目の前にある何か大きなものを見つめていた。

 熊だった。熊の死体だった。日中『闇竜』に殺された巨大な熊。

「……熊、死んだね」

 そっとヴェネレは猟師の隣に降り立った。杖の星焔が、旗のように揺れていた。

 猟師はしばらく何も話さなかったけれども、少しして。

「……ああ、死んでる、な。不死身の化け物、だったのに」

「『闇竜』は命を食べる。命を食べられたら、どんなに強くても終わりだよ」

「……そうか。そんな相手だったら、なぁ……まぁ……」

 猟師の顔に表情はなかった。

 ただ腐っていく獣の死体を見つめているだけだった。

 ――もう怒りを秘めた様子も、溢れる殺意も、なかった。

「……ごめんね、おじさん。熊のこと……殺したかったんでしょ」

 ヴェネレが謝るものの、猟師はまたしばらく返事をしなかった。やはり熊を見つめたまま。

 夜風が星焔とランタンの光を揺らす。いくら待っても猟師が何も言わず、また動かないものだから、ヴェネレはゆっくりと再び口を開いた。

「おじさん、帰ろう。この森『闇竜』がいるんだから。昼間よりも活発になってるはずだよ。僕があいつをやっつけるまで、夜は小屋で大人しくしてくれてるとありがたいな」

 くいくいと、ヴェネレは猟師の服の袖を引っ張った。

「僕、送るからさ。一人で帰して、その途中『闇竜』に襲われたりしたら、腹が立つし」

「――ずいぶんと仕事熱心なんだな」

 遅れて返事があった。猟師は深呼吸をするように瞬きをすれば、熊の死体に背を向けた。小屋のある方へと歩き出す。

「僕ね、誰かが死んだり、誰かを死なせちゃったりするの、好きじゃないんだ」

 まるで描いたかのような美しさを備えた少年は、少し意地悪そうな笑みを浮かべた。どこか恥ずかしさを隠しているかのようだった。

「それと、おじさんが夜遅くまで出歩いて、昼までベッドで眠られたら困るんだ。昼間は僕がベッドで寝たいんだ。僕、結構寝るの好きなんだよ?」

「はいはい……」

 猟師は思わず苦笑していた。

 この『星焔灯』……図々しいというか、いけしゃあしゃあというか。とにかく好き勝手に生きているようだ。けれども妙に憎めない、鬱陶しいと思えない。むしろ……。

 そう感じてしまって、猟師は苦笑いを浮かべるしかできなくなってしまったのだ。

 なんだかんだ、彼は他人を慰めようとするし、気も遣ってくるし。

「――『灰嵐』って呼ばれてる熊だったんだ」

 自然と言葉が出ていた。しかし猟師は気にせず、続けた。

「俺は前まで、森の外にある村に住んでたんだ……嫁と、二歳になった娘と一緒にな」

 いま、話しておきたくなったのだ。

「……ある日の夜だったよ。あの馬鹿でかい熊が家を襲ったのは。確かに俺の家は村の中でも森の近くにあった。すぐそこを狐が歩いてるなんてことは、何回もあったさ。だが熊が来るとはな……おまけにその熊が、家を押し潰すみたい襲ってくるなんて……」

 あれは、あっという間の出来事だった。

「それで、家の中に入ってきた熊が……嫁と娘にがぶっといったわけだ」

 ヴェネレは何も言わなかった。瞳だけを猟師に向けて、話を聞いていた。

「熊がむしゃむしゃ嫁と娘を食ってる間、俺は震えてたよ」

 猟師は先の暗闇を見つめていた。

「そのうち我に返って、慌てて家から飛び出して……で、生き延びた」

 先の暗闇に、ようやく小さな灯りが見えてきた。小屋の灯りだった。

 小屋の扉の前まで来たところで、ようやくヴェネレは口を開いた。

「だからおじさん、あの熊を絶対に殺したかったんだね。この小屋で一人過ごして殺す機会を探すくらいに」

 とはいえ、と猟師は思う。

「それにしても……相手が不死身だから困ったもんだったよ。今日だって、銃弾何発も撃ち込んでも全くきいてなかったようだし」

 と、そこで、だった。

 今日の、熊との戦いを思い出して。

「――そういえばお前、あの熊はなんだかんだって、何か言ってなかったか?」

 確かあの時、彼は何か妙なことを言っていた。それを思い出して猟師はヴェネレに尋ねた。ヴェネレは。

「何か言ってたっけ、僕」

「言ってた言ってた……なんかただの熊じゃないだとか、どうだとか」

「――ああ、星の光を受けたことかな?」

 そう、星の光。星の光を受けた熊だとか、なんだとか――。

 なんだそれは、と猟師が首を傾げれば、ヴェネレは夜空を指さしたのだった。

「星に願いを叶えてもらったってことだよ、おじさん」

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