05:『灰嵐』

「……『灰嵐』」

 猟師は呟けば、すぐさま猟銃を構えた。そしてひどく抑えた声で言うのだ。

「お前……! お前、動くなよ……!」

「動かないよ。向こう、まだ僕達に気付いてないようだからね」

 猟銃の狙いは震えない。熊は全くこちらに気付かず水を飲み続けている。

 川のせせらぎと、鳥の鳴き声、そして風の音だけが聞こえる。

 瞬きをして、猟師は改めて狙いが定まっていることを確認する。

 ――いい猟銃、いい銃弾を用意したつもりだった。

 ――以前、普通の猟銃で撃った際、あの熊に少しもきかなかったから。

 今度こそは。今度こそは。

 怒りの吐息が、口から漏れていた。

 引き金を、引く。

 ダン――と響く銃声。飛び立つ鳥達。怯えたかのように風に吹かれ揺れる木々。

 そして。

「――ああ、だめじゃないか」

 落胆した様子もなく、だからといっておもしろいといった様子もない、ヴェネレの声。

 直後に空気を震わせたのは、熊の怒りの声だった。

「……なんで……っ!」

 猟師は目を剥くしかなかった。

 命中した――間違いなく命中したのだ。

 しかし以前のように、熊は怪我一つない様子だ。怒りにぎらつく瞳を、猟師、そしてヴェネレへと向ける。まるで『闇竜』のようだった。『闇竜』のように、銃弾は当たったはずなのに、当たっていない――。

 と、そこで猟師は我に返ってもう一度猟銃を構えた。しかしその時にはもう、熊は走り出していた。川の向こう岸から、こちらへ……川にいるヴェネレへ向かって。

 ――悲鳴を上げた妻と、泣き叫ぶ幼い娘の姿が瞬いた。

「お前! 逃げろ!」

 猟師の声は裏返って震えていて、狙いも震えてしまった。だから熊を狙ったものの、銃弾は空しく川底へと沈んでいった。

 冷たい飛沫が上がった。灰色の巨大な熊が、ヴェネレに飛びかかる。

 猟師はもう、悲鳴も上げられなかった。

 ……だが、とん、と音もなく、夜色に染まった素足が宙を蹴った。

 そして空に飛び上がったヴェネレは、そのまま虚空で舞うようにくるりと回った。濡れた銀の髪から、水滴が飛び散る。

 彼の真下では、獲物を捕まえ損ねた熊が、冷たい川の水に抱擁していた。

「まったく、危ないね」

 水浴びをしていたのだから裸であるヴェネレは、宙をたったっと跳ねるように歩けば、川岸においてあった自身の荷物や服、杖を手に取った。宙に立ったままタオルを取り出せば、それで身体を軽く拭きつつ、猟師の真横に降りてくる。熊が怒声を上げているが、彼は全く気にしていない。

 『星焔灯』は空を歩けるのだった――そのことをすっかり忘れていた猟師は、驚いて真横に浮くヴェネレを見上げた。

「おじさん、どうする? あの熊……晩御飯にするの? 僕、何か手伝おうか?」

 ヴェネレはいそいそと服を着始めていた。平然とそう口にする。しかし銀の瞳が鋭くなって。

「――でも、おじさんの様子、変だったよ。あの熊、何かあるんだね?」

 そう尋ねられたものだから。

「手を出さないでくれ。あいつは……俺がこの手で殺したいんだ」

 気付けば猟師はそう答えていた。猟銃を持つ手には、勝手に力が入っていた。

 そ、と、ヴェネレは微笑んだ。ようやく簡単に服を着た彼は「じゃあ僕は大人しく観戦でもしていようかな」と、宙を蹴ってふわりと高くに上がった。

「頑張ってね、おじさん――おじさんがそう言ったんだから、僕はおじさんが負けて殺されそうになっても手出ししないよ。いいね?」

 それでかまわなかった。猟師は無言で再び銃を構えた。

 とにかく、あの灰色の巨大な熊――『灰嵐』は自分の手で、殺したかった。

 熊はゆっくりと川を渡ってきていた。前足が、ついにこちら岸を踏みしめる。ぎらつく瞳に映っているのは、猟師だけ。

 ダン――。

 銃声がまた響く。放たれた銃弾が、熊の額に命中する。

 瞬間、熊は潰れるように地面に伏した。だが。

 ……唸りながら、起き上がったのだった。

 熊と猟師の距離は、もうそこまでなかった。熊は両腕を広げ吠える。そして四つ足になって走ってくる。

 まずい。猟師は木々の間へ駆け込む。灰色の熊は、その巨体に似合わず走るのが速い。撃っている余裕はなかった。斜面になっている場所まで出れば、猟師はそこをずるずると落ちていく。と、頭の後ろ、すぐのところを、熊の爪がかすめていった。猟師の髪、いくらかが宙に散った――届いていたのならば、殺されていただろう。心臓がきゅっと縮む感覚。しかし猟師は斜面を下りきれば、とにかく熊から距離をとるように走った。

「危ないねぇ、おじさん、ほら、速く逃げて」

 上空でくつろぐように横になっていたヴェネレは、目下での死闘がまるでただの試合であるかのように笑っていた。

「追いつかれちゃうよ。追いつかれたら、助からないよ……助けないよ」

 猟師は必死に走っていた。けれども巨大な影は、すぐに背後に追いつく。

 けれども、がきん、という音が響いて、不意に熊は悲鳴を上げて立ち止まった。

「――へえ。罠まで誘導してたんだ」

 ヴェネレが楽しそうに目を見開いて、わずかに地上に降りてくる。

 熊の太い足。その片方が、トラバサミに捕らわれていた。

 振り返って、それを確認して笑みを浮かべた猟師は、しかし険しい表情を取り戻し、猟銃を構える。

 数発の銃声が森に響いた。全ての弾が、灰色の巨躯に命中する。それでも。

「……化け物め」

 構えた銃をおろした猟師の声は、震えていた。熊はまだ動き続けていたのだ。命中した銃弾に対して、少しだけ痛がるような姿を見せたものの、それよりもトラバサミが気に入らないらしくて、脱出しようともがいている。

 ぼうっとしている暇はない。いまので装填していた全ての銃弾を使ってしまった。

 いまのうちに、と、猟師が銃弾を装填しようとしていると。

「……あれ、ただの熊じゃないねぇ」

 ヴェネレがゆっくりと真横に降りてきた。猟師は彼を見ずに答える。

「ああ……人喰いの、怪物さ」

 するとヴェネレは小首を傾げた。髪や様々な宝石を使った装飾品が揺れて、きらめく。

「あれ――星の光を受けた熊だよ」

「――星の光?」

 ――ばきん、という音。トラバサミの断末魔。

 そして怒り狂った熊の、乱れた呼吸。

 おっと、と、ヴェネレが再び上空へ退く。猟師も装填の終わった猟銃を再び構える。

 が。熊は恐ろしい速度で距離を詰めてきたのだった。

 目の前で振るわれる、太い腕。土で汚れているにもかかわらず、刃物のように光る爪――とっさに猟師は一歩後ろに下がったため、顔を持っていかれることはなかった。しかし猟師は尻餅をついてしまって、そのまま銃を構える余裕も失ってしまったのだった。

 見上げたのはそそり立つ灰色の獣。

 不思議なことに、猟師の震えは止まっていた。諦めによるものだったのかもしれない。

 脳裏に妻と娘の姿がよぎった。

 ――すまない。

 目を瞑る。最後に熊が腕を振り下ろすのが見えた――。

 ……背筋も凍るような咆哮。木々が怯えるかのように震えた。風に揺れたのではない、確かにその咆哮に震えたのだ。

 熊の咆哮では、ない。

 はっとして猟師が目を開ければ、熊の腕はまだ宙にあった。そこで止まっていた。そして熊は、自分ではなくよそを見ていた。

 もう一度、あの咆哮が聞こえてくる。木々の向こう、昼間でも薄暗い闇の中から、這うようにして響いてくる。

 直後に、ばっと身体を何かに捕まれ、猟師は宙に浮いた。熊の仕業ではなかった。

「……っ、お前っ、手出しはしないって……!」

「事情が変わった!」

 細い身体でも、ヴェネレは正面から抱きつくようにして、猟師の身体を抱えていた。重いのだろう、宙を歩くステップからは、軽快さが失せている。それでもその場から猟師を連れて離れようとしていた。

「おろせ! おろせっ!」

 猟師が暴れると、ヴェネレはよろけて宙から落ちそうになった。だが彼は猟師を放そうとしなかった。

「あのね、悪いけど、一般人を奴から守るのも、僕の仕事なんだよ、おじさん」

 そうしてヴェネレは、何とか片手で杖を構えて、振り返る。

 森の奥。木々を薙ぎ倒しながら、何かがこちらに迫ってきていた。

 現れたのは、夜よりも濃い漆黒。

「『闇竜』……? おい、まだ午前中だぞ……」

 とっさに猟師は空を見上げて、太陽があるのを確認した。闇の存在は、陽の光に弱いはずなのだ。昨晩のように夜迫る夕方ならまだしも、こんな日中に姿を現すなんて。

「この森、暗いからね」

 ヴェネレが答えれば、手にした杖の上部で、不思議な輝きを放つ赤橙の炎が燃え上がる。

 星焔。闇を払う力。

 けれども『闇竜』は、こちらには気付いていないようだった、熊を見つければ、咆哮を浴びせる。すると熊も吠えて、まるで縄張り争いでも始めるかのように睨みあう。

 ヴェネレの杖から、星焔が消えた。

「運が良かったね。どうやらあいつ、僕達に気付いてないらしい……これは逃げるのが賢いね、おじさんを巻き込むわけにはいかないし」

 そうして彼は、空を駆け出す。

 離れていく川岸で、『闇竜』と熊が争い始めたのを、猟師は見た。

 『闇竜』が熊に噛みつく。いくら銃弾を食わせても、全くものとしていなかった巨大な熊。だが喉笛に『闇竜』の牙が突き立てられたとたん、熊はもがき苦しみ、やがてその太い腕がだらりと下がった――。

 待て、という猟師の叫び声は、ヴェネレへのものだったのか。『闇竜』へのものだったのか。

 ヴェネレも『闇竜』も、その制止に耳を傾けなかった。ヴェネレはただ空を歩いて必死にその場から離れ、そして『闇竜』は首の骨を砕かんといわんばかりに、より強く牙を熊に食い込ませていた――。

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