04:川にて

 湖はどこかにあるか、と聞かれた。

 川ならある、と猟師がヴェネレに答えれば。

「案内してよ、おじさん」

 そう暇ではなかったものの、猟師はヴェネレとともに川に向かうことにした――どのみち、川には行かなければならなかったのだ。魚を得るための罠を見に行かなくてはいけなかった。

 まるで夜の色が沈み込んだ素足で歩くのが、『星焔灯』の特徴の一つだった。猟師の隣で、ヴェネレはあたかもスキップでもするかのように楽しそうに歩いている。だが森の中は薄暗い。この森は、普通の森よりも暗い言われている。午前の光は、そう差し込んではこない。

 ヴェネレの手には、あの杖が握られていた。その上部から炎は出ていない。そしてヴェネレの背を見れば、軽そうではあるものの、荷物を背負っていた。昨日、墜落し気絶した際にも背負っていた荷物だった。

「おじさんは、あの小屋で暮らしてるんだよね?」

 川への道中。茸が生えているのを見つけた彼女は、杖の先でちょんちょんとその傘をつつきながら尋ねた。

「それにしては、小さくてなかなか不便な感じのする小屋だったね。もともと、長く過ごすための場所じゃないような……けど、しばらくあそこで暮らしてるって感じだったね」

 どうやらヴェネレには、そういうことがわかる目があるようだった。もっとも。

「その茸、毒があるぞ。触るんじゃない」

「……よかった、指で触る前に、杖でつついてみようと思って」

 ざりざりと、彼女は杖の先を地面にこすりつけた。毒のない茸と、毒のある茸の区別はつかないようだった。

「それで……なんであんな場所に、一人で暮らしてるの?」

 ヴェネレは繰り返す。

「僕、この森に来る途中に、近くで村を見たんだ。普通なら、そこで暮らさない?」

 それで彼女は不思議に思っているようだった。

 自然な疑問かもしれないけれども、猟師は。

「お前……よく喋るな」

「普段一人で旅をしてるせいかなぁ……楽しいよ?」

「……俺は、そうでもない、な」

 そうして理由を答えなかった。そしてヴェネレもそれ以上、何も聞いてこなかった。薄暗い森の中、どこかから響いてくる鳥と獣の声だけが、二人の耳をくすぐっていた。

 やがてその音に、せせらぎが流れ込んできた。

「あ、あれだね」

 ヴェネレが嬉しそうな声を上げて、ぺたぺたと先に駆け出す。陽の光を受けてきらきらと輝く川が現れた。裸足のヴェネレは、そのまま川の浅い場所へと入っていく。そしてばしゃばしゃと、まるで幼い子供のようにはしゃぐのだった。

「深いところもあるから、気をつけろよ」

 それは思わず猟師がそう声をかけるほど。

 ところで、何故ヴェネレは川に来たかったのだろうか。荷物と猟銃を下ろしながら、ふと猟師は考える。ただ水遊びがしたかっただけだろうか。

 何であれ、溺れたり流されたりしなければいいか――そうヴェネレをちらりと見てから、猟師が川に沈めてあった罠を引き上げようとした時だった。

「――おいおいおいおいおい!」

 思わず猟師はヴェネレを二度見して、まさに今引き上げようとしていた罠のロープを手から滑り落としてしまった。

 ヴェネレは。

「どうしたの、おじさん」

 平然とそう言う彼女は――服を脱いでいる真っ最中だった。

 白くて小さな肩が現れる。肩胛骨が見えた。腕の細いヴェネレは身体も細くて、腰の曲線が滑らかだった。そして下半身の曲線も、まるで偉大な芸術家が手掛けた彫刻のように美しいもので――。

「おい! 何で真っ裸になってんだよ!」

 見ているこちらが恥ずかしくなるほどで、猟師はより声を張り上げた。あまりにも平然と一糸纏わぬ姿になった彼女に対して、怒りも混じった声だった。が、我に返ってヴェネレに背を向ける。

 ――猟師は紳士であった。女がそこで水浴びをするというのなら、背を向けるべきだと判断できる男だった。

 ……だが、確かに男だった。

 そこで美しい少女が服を脱いで水浴びをしているのだ――背を向けたものの、徐々に振り返っていく。手で顔を覆ったものの、指の隙間はあいている。

 もう一度。もう一度だけ。

 汚れ一つない、まるで女神のように美しい、白く滑らかな身体を見てみる――。

「……んっ?」

 そこで猟師はようやく気がついた。顔を覆うようにしていた手をばっとおろして、ヴェネレへ歩き出す。

 水浴びをするヴェネレは、自らの肌を冷たい川の水で清めていた。濡れた髪は、光を受けてさらに輝く。後ろへ流せば、細い首や鎖骨が現れ、また全く膨らみのない胸も現れる――女というには平たかった。そして股間を見れば。

「……おま、お前……男、だったのか」

「そうだよ、おじさん」

 ヴェネレという名の『星焔灯』の少年は、からかうかのような笑みを浮かべた。流されないように仰向けに水面に浮く。

「はは! 僕のこと、おじさんみたいな男の人の前で服を脱いで水浴びするような、何にも知らない不用心な処女だと思ったの?」

 口調はまさに、からかうもの。

「女の子だって、よく間違われることはあるし、そう見えてたり、見られてることは自覚してるけどね」

 ほら僕、と、ヴェネレは顔を上げてにっこりと笑った。

「僕、美人でしょ?」

 ――深く溜息を吐いて、猟師はかぶりをゆるゆると振った。

 まるで人を手のひらの上で転がすかのようなヴェネレの態度に、怒りや呆れが決してなかったわけではない。それよりも、残念がる自分がいることに、悔しさと苛立ちを覚えた。

「……あんまり、人を驚かすなよ」

 ヴェネレが美人なのは確かだ。その分、たちが悪いというか。

 罠を引き上げに、猟師は戻っていった。その際振り返れば、ヴェネレはあたかも妖精のように腰まで川に浸かって踊るようにくるくると回っていた――彼は男であるけれども、見ていると妙な気分になってくる。猟師はそっと顔をそらした。

 あれはちょっと目に毒だ、と思って。すると。

「見たかったら、見てもいいんだよ?」

 見透かしているかのような、ヴェネレの声。思わず顔を上げると、ヴェネレは手で水鉄砲を作って、ぴゅっ、と軽く水を飛ばしていた。

「僕、見た目に自信あるからさ」

「お前なあ……」

 たちが悪い。たちが悪い。

 くるりと背を向けて、猟師はもう振り返らず、沈めた罠を引き上げるためにロープを掴んだ。ふぅん、と声が聞こえたが、それはつまらなかったからなのか、はたまた、からかい誘おうとしたものなのか。

「こっちはお前の分のメシも集めないといけねぇんだから……」

 だが。

「……何もいない」

 罠の中に魚はいなかった。餌がそのまま入っていた。けれども罠はもう一つ仕掛けてある。猟師はそれも引き上げてみるが。

「……なあ『闇竜』がいると、動物もいなくなったりするのか?」

 その罠の中にも魚はいなかった。餌だけが残されている。

「一般的な動物は嫌がって逃げるね」

 ヴェネレがばしゃばしゃと川の中を進んでくる。生まれたままの姿の彼に、やはり猟師は戸惑って一瞬視線をそらしてしまうものの、空の罠の中を彼に見せた。すると、ヴェネレは顔を上げて。

「あーあ。魚、僕なかなか捕まえられないから、久しぶりに食べられるかもって思ったんだけどね……もしかして、今日のごはん、ナシ?」

「いや。川がだめなら山菜を採ったり、適当に獣を狩ればいい……それでもだめなら、そういうときのための干し肉だってあるし」

 猟師が答えれば、ぱっとヴェネレは顔を明るくした。

「よかった。じゃあ、僕は腹ぺこのまま仕事しなくていいわけだ……」

 そうして彼は、また元のように水浴びを始めた。深く潜ったかと思えば、少し離れたところに銀色が浮かび上がる。

 猟師は罠をもとのように沈めれば、荷物を背負った。

「お前、小屋までの帰り道はわかるな?」

 猟銃も背負って、ヴェネレに尋ねる。

「魚はこのざまだ……俺は適当に狩りに行くよ、探してる奴もいることだし……風邪ひく前に、上がるんだぞ。あと……誰も来ないと思うけど、もし誰か人が来たらびびるだろうし……まあ……女と間違われるだろうから、長居するんじゃないぞ」

「ははは!」

 何がおもしろいのか、ヴェネレは声を上げて笑った。だが猟師が川から数歩離れたところで。

「――ちょっと待っておじさん」

 彼は急に、呼び止める。

「適当に狩るって、何を狩るの?」

 まるで子供のような質問。夕飯は何かという問い。猟師は気だるげに振り返れば、手をひらりと振った。

「ウサギとか、鹿とか……なんだ、食べられないもんがあるとか言うなよ」

「そうじゃないさ」

 ではどうして急にそんなことを言い出すかと、猟師が身体ごと振り返れば、ヴェネレは川の中で、向こう岸を見つめていた。

「熊も獲物なのかなってね」

 不思議な輝きを返す、銀色の瞳。その先に、灰色の大きな影があった。

 向こう岸で、熊が水を飲んでいた。

「どう? あれ……何日分のごはんになるかな?」

 ヴェネレはそういたずらっぽく振り返ったが、猟師の顔を見て、すっと目を細めた。

 猟師の顔から、表情が消えていたのだ。

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