彼女が俺を知らない世界

第9話 彼女が俺を知らない世界(1)

「おい、大丈夫か?」


 拓馬は頬に軽い衝撃を感じて、意識を取り戻した。ゆっくりと目を開けると、目の前に高校生ぐらいの少年が心配そうに見つめている。


「ああ、良かった。落ちちゃったから心配したよ」


 ほっとした顔をしている坊主頭の少年に見覚えがあった。高校時代からの親友で、同じ柔道部に所属していた吉田雄二(よしだゆうじ)だ。


「あれっ? お前、雄二か……」

「ええっ? おい、大丈夫か?」


 よく見ると、雄二は柔道着を着ている。拓馬はゆっくりと上半身を起こして座り、周りを見渡した。今いる場所は通っていた工業高校の柔道場で、数人の柔道着を着た少年達が拓馬を取り囲んでいる。どの顔も懐かしい柔道部のメンバーだ。ふと気付くと、拓馬自身も柔道着を着ている。


「なんでこんなところに……」


 拓馬は夢を見ているような不思議な気持ちになったが、意識もはっきりしているし、体の感覚もある。どう考えても現実としか思えなかった。


「やばいな……誰か先生を呼んで来てくれ」

「えっ? でも今は会議中ですよ」


 雄二が呼んで来いと言ったのは、柔道部顧問の宮下先生の事だ。


「ああ、もう大丈夫、ちょっとボケていただけだから。少し顔を洗ってくるよ」


 拓馬は立ち上がり、無理して笑った。本心では訳が分からず混乱しているが、顧問まで呼ばれて大事にしたくは無い。とにかく冷静になって、今の状況を考えたかったのだ。

 柔道場を出るとすぐ体育館との共通の玄関があり、そこを出てすぐ横にトイレと手洗い場があった。拓馬の記憶にある体育館建屋と同じだ。体育館建屋は一階の半分が食堂、残り半分を柔道場と剣道場に割り当てられていて、二階部分は全て体育館だ。まだ確認はしていないが、今居る場所も同じ作りになっていると拓馬は想像した。

 拓馬はトイレの横にある手洗い場で頭から水をかぶる。今は夏なのか、冷たい水が心地良い。拓馬はその冷たさで、今の置かれている状況が夢では無く現実なんだと思い知らされた。


――俺はマンションに帰る途中で事故に遭った。エアバッグがあるからと言っても無傷では済まなかっただろう。だが、体はどこも痛くは無いし、歩いても異常を感じない。それにもし、奇跡的に無傷であったとしても、意識を取り戻す場所は事故現場か病院の筈だ……。


 拓馬はハッと気付いて、トイレの中に入った。トイレに鏡があったのを思い出したのだ。


「うっ……」


 鏡を見た瞬間、拓馬は小さくうめく。鏡に映ったのはスポーツ刈りに柔道着を着た高校生の自分だったのだ。予想をしていたとは言え、現実に自分が若返ったのを見ると言葉が出ないくらい驚いた。


――これで間違いは無い。理由は分からないが、俺は意識だけが高校生時代に戻ってしまったんだ……。

――俺は死んだのか? 死んで魂だけが、昔に戻ってしまったのか?

――彩……。


 心から愛した恋人の笑顔が、拓馬の頭に浮かび上がる。


――もし、俺が死んだとしたら、彩はどれだけ悲しむんだろうか……。


「拓馬―大丈夫か?」


 拓馬は呼びかけられた方を見る。戻らない拓馬を心配して、雄二がトイレに様子を見に来てくれていた。


「お前顔色悪いぞ、保健室に行くか?」

「いや、大丈夫だ。だけど、今日はもう帰るよ。心配しなくて良いから、悪いけど先生に言っておいてくれよ」


 雄二はそれでも保健室を勧めたが、それを断って拓馬は家に帰る事にした。

 拓馬は部室で自分の荷物の中から携帯電話を見つけた。


「携帯か……」


 この頃拓馬は、まだスマホではなく携帯を所持していた。その懐かしい携帯を見て、やはり過去に戻っているんだと感じた。

 拓馬は自転車置き場で、自分の自転車を探し回る事になった。七年前に自転車を停めていた位置など、覚えていなかったのだ。

 なんとか探し出した自転車に乗って実家に向かう。通学路の様子が今と違う事に気付いた。全て高校時代の景色に戻っていたのだ。


――俺はどうなってしまったんだ……。


 昔の景色に懐かしさを感じる余裕もなく、拓馬は家へと向かった。



「ただいま」


 拓馬は県営住宅の実家に帰ってきた。恐らく誰もいないと思っていたが、「ただいま」と挨拶した。もうこの頃には、飲んだくれでギャンブル好きの父も、高校を卒業してすぐ働き出した兄も家を出ていたし、母は仕事に行っている時間だから誰もいない筈なのだ。

 拓馬の予想通り返事も無く、2DKの家の中には誰も居ない。兄が家を出た事で一人部屋になっていた自室で布団を敷き、開襟シャツと制服のズボンを脱ぎ捨てて横になる。

 拓馬は酷く疲れていた。悪い夢なら醒めて欲しいと願いながら眠ってしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る